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台本  作者: 月雨はる
7/7

終章 おやすみ

8月29日


 昨日の掃除と模様替え達成の祝杯を、あの酔っ払いこと後藤さんと挙げている。外は42度、昨日からずっと同じ気温だ。外でコオロギがたった一匹、死にそうな声で途切れ途切れに鳴いているのが聴こえる。


「やっぱ人の金で飲む酒が一番うまいよな」

「ほんと嫌な大人ですね」

「そう、私嫌な大人なんです」


 そう茶化しながら僕にビール二缶を寄越す。こんなことを言っているが、昨日模様替えが終わった後に「おつかれ」と六缶差し入れしてくれたのは彼だ。やっぱいい大人だな。


「そういや月雨、バイト始めたんだっけ?」

「あぁ、はい。すぐそこのホームセンターで」

「なんでまたホームセンター」

「コンビニより学校に近いので」

「ふうん」


 僕カシュッと二本目を開けた時、二人のスマホが震えながら緊急アラートを鳴らす。


「またか。もうそのうち海が黒くなるんじゃないですか」

「学校とか言ってる場合なのかそもそもこのご時世」


 後藤さんの言う通り、授業は座学では全てオンラインとなり、室内楽アンサンブルなどの複数人での実技授業は一時休講。楽器製作の授業も週三から週一に減った。いつ緊急事態宣言が発令されてもおかしくない。


「えーっと、あとはなんか、ウクライナ侵攻(しんこう)に核が使、われたらし、いです… えぇ…?」

「何それ、んなわけないじゃん」

「いやほんとですって、ほらこれ」


 後藤さんにニュース記事を見せる。


「おいマジかよ… 」

「いつか来るとは思ってましたけど…マジか」


 遠くから轟音が近づいてくるのと同時に、慣れた手つきで机の上にそれぞれ置いてあった耳栓をつける。


「うん。まぁでも、これで—— 」


 また黒い流れ星が、ミサイルが轟音を引き連れて星座を蹴散らしながら飛んでいく。



「何か言いました?」

「いや、何でもない」

「緊急事用にスターライトを使用した防護服とかあったらいいのになぁ‥‥ 」

「ロストテクノロジーだっつの」

「いーやわかりませんよ」

「わかれよ」


 それから一週間も経たないうちに、世界は激変した。

 パンデミックと緊急事態宣言が発令され、世界各地の戦争は激化の一途をたどり、紺中夢(こんちゅうむ)患者数は世界中で過去最多。新種のウイルスの感染力は桁違いで、雨にも付着しているという噂もある。事実、豪雨に見舞われた都市や市町村の発症率は高くなっている。これらによる混乱の収拾の目途は一向につかず、全国のあらゆる機能が麻痺した。


 更に気温は日が沈んでも40度前後から下がらない日が続き、熱中症による死亡者は増える一方。病床も常に飽和状態で、川辺で死んでいる人もたまに見かけるようになった。


 スマホには四六時中ミサイル攻撃や二次災害の速報が来る。

 次々と脳にねじ込まれる情報を噛み砕く暇も与えられず、国民はみるみるうちに憔悴していった。



9月5日


「後藤さん、避難しないんですね」


 今日は冷房の効いた後藤さんの部屋で、いつも通り晩酌をしている。

 いつ来るか分からない軍事攻撃やそれによる二次被害を恐れて、この町の人たちのほとんどが避難し始めていた。周りに標的となりそうな施設が無い場所へ。


「したところでだよ。むしろこっちの方が安全かもしれない。いつも通りを過ごした場所に出来るだけ長く居たいんだ。ほぼないようなもんだけど」

「そうですね」

「君はどうするの」

「後藤さんと同じです。もう家族もいませんし」


 唯一の家族である母は、8月の上旬に最重度の紺中夢にかかり、自らの希望で入院した。それによる衰弱もあってか、持病がみるみる悪化して、あっけなく最期を迎えた。

学校に許可をとって母の元へ駆けつけ、看取ることが出来た。


『ごめんね…ごめんね…』


 母は逝く前も、寝言でずっと誰かに謝っていた。

 その声色から、何となく僕に向けてだと分かった。ただの願望だろうか。もう僕のことなど、とうに忘れているはずなのだから。

 僕が駆けつけて三日間、結局一度も目を覚ますことなく息を引き取った。静かな最期だった。何となく僕も先は長くないだろうと感じていたからか、涙は出なかった。


「そっか。ほらもう一杯付き合ってよ」


 後藤さんが冷蔵庫から冷えたビールを取りだしてこちらにポイと投げる。


「もちろんです」

「あっりがっと」

「今夜も来るんですかね、あいつ」

「だろうね。もし流れたら今日で3回目だ。よく資源尽きないよな」


 プルタブを引くと、カシュッと失笑した。


「どうかしてますわ。乾杯」

「乾杯。感染症でもない紺中夢が流行るくらいだし、今では〝どうかしてる〟のがいつも通りだわな。皆病んでんだよどっかしら」


 ビールをあおるついでに空を見渡す。ずっと前に出て行ったっきり月は帰ってこず、夜空はもぬけの殻となっている。

 同時に飲み終わると、ため息の後に重たい静寂が鼓膜をシンと押さえてきた。 その静けさに、思わず涙が出てきそうだった。


「‥‥ 車通らなくなったなぁ」


 後藤さんがぼそっと呟く。


「ですね」


 僕の相槌にまた相槌を打つように雨が降り始めた。それはわずか4秒ほどで豪雨に変わり、ガラガラという音が鳴る前に、雷がすぐ近くに落ちる。


 バチッ


「あらあら」


 近くの電柱に落ちたようだ。僕は急いでベランダから避難して、窓を焦って閉める。対して後藤さんは、さっきと変わらない穏やかな声色で言った。


「停電か〜」

「まずいですね」


 後藤さんはのろのろと冷蔵庫にパンパンに詰めておいた水やお酒、たんまり買いだめした非常食をリュックやクーラーボックスに詰め込み始めた。僕は傘と懐中電灯を持ってコンビニの様子を見に行く。もしかしたら、まだ何か食料が残っているかもしれない。


 濁った雨が浴槽をひっくり返したように落ちてきて、地面を抉ろうとしている。

傘を差して走る人も、ワイパーを振り回して走る車も、急いで洗濯物を取り込む人も、街の明かりもない。アパートの明かりも街頭も信号も、すべて消えている。

 そんなことを考えながら階段を数段降りたあと、足を滑らせてそのまま転げ落ち、粗いアスファルトに体が酷く打ち付けられた。


「—— っつ」


 傘と懐中電灯が遅れて僕の目の前に落下する音がして、黒っぽい雨が服を一瞬で汚していく。


「壊れてなくてよかった‥‥ 」


 階段から落とされて拗ねた傘をひっつかみ、コンビニを目指して歩く。懐中電灯がなければ、今自分がどこを歩いているのかさえ分からないくらい真っ暗だ。

コンビニに着くと、正面のガラスが割られていた。既に誰かが押し入ったのだろう。


「コンビニもあんま期待できそうにないか」


 店内を照らしてみたが、見た限り食料はほとんど残っていない。

 風も強くなってきた。ひとまず家に戻って、天気が落ち着いたら明日在庫を後藤さんと漁ってみよう。


 アパートのすぐ傍にある自販機は、恐らく水分確保のためだろう、無理やり壊されて中身が全て盗まれていた。お金が盗まれていないことから、正気を失っていることが分かる。


 そろそろ自分の部屋に帰ろう。痛む体を無理やり動かして、錆びた手すりを掴んで何とか部屋まで辿り着き、鍵を開ける。

 冷蔵庫にあった飲料水や非常食をクーラーボックスに入れ、浴槽に水をためるついでにシャワーを浴びた。薄着だったので、腕や足を何ヶ所も酷く怪我してしまった。なかなかに染みる。


「後藤さん、明日コンビニとアパートの部屋全部回ってみませんか」


 入浴を済ませた後、後藤さんの部屋に出来るだけの荷物と生活用品を持ち込んで、思いついた犯罪を提案した。


「ついに?」

「ついに」

「背に腹は代えられないかぁ」

「コンビニはすぐそこの自販機みたいにされてそうですけど、他の人が持ちきれなかったものがまだあるかもしれません」

「飲み物でも食べ物でも、何か一つでもあれば万々歳よ。俺らで分けようぜ」

「僕がまた紺中夢にかかったら状況説明お願いしますね」

「そっちもな。ほい、もう一本飲め」


テーブルにビールを置いて、カーリングみたく滑らせてこっちに寄越した。


「昨日も今日も酒やくざですか」

「おう。乾杯」

「はいはい乾杯乾杯」


 唯一の情報源であるネットニュースやSNS を眺める。基地局は停電にならなかったらしく、時々届きにくくはなるものの、幸い圏外にはならなかった。


 当たり前だが、更新されるニュースはどれも鬱々としたもので、しかし何故かスクロールする手は止まらなかった。

 避難所になっている学校、公民館、神社はとっくに飽和状態。食料や水、寝床などの激しい取り合いは日常茶飯事。暴行、性犯罪、恐喝(きょうかつ)、インフルエンザやコロナウイルス、そしてパンデミックを起こした新型ウイルスの集団感染。大勢の紺中夢患者。毎日のように出る死者。

 火葬場は機能していないため、やむを得ず離れた田んぼや空き地で火葬。食料の尽きた避難所では、空腹の末に亡骸(なきがら)の肉を食べる者まで現れた。

 病院の申し訳程度の非常用電源は一瞬で尽き、酷い有様だという。


 想像しただけで避難所から避難したくなる。しかし家に戻ったところで、恐らく備蓄も無ければ(あったとしても、僕らのような人間に取られている)ライフラインもない。公園の水道などはだんだん濁りだしてきたので、その内安全な水も確保できなくなるだろう。ろ過しようにも、砂にも雨は降り注いできるため、自殺行為になる。


 これでも偽善者たちは「きっと大丈夫だよ」「頑張ろう○○!負けるな○○!」「希望を捨てないで」とほざくのだろうか。

 彼らはこの先、皆が元気に生きている姿をこの期に及んで想像できるというのか。彼らが他人の荷物から取りだしたその財布は、食料は、どう説明するのだろうか。そんなことばかり考える。


 その時、スクロールしていたスマホから国民保護サイレンが鳴り始めた。それとほぼ同時に、聞きなれた違和感の存在に気づく。


「え、後藤さんこれ‥‥ この音って」

「えっ、ちょ」


 僕たちは目を合わせる。ゴオオオオオという音はするが、一向に遠ざからない。それどころか、段々と大きくなっている。

 そんなまさか、ありえない。

 流れ星が来るにはあまりにも早すぎる。


「月雨、伏せろ!」


 直後、鼓膜が破れる程の衝撃音とともにガラスの割れる音がして、机の下に潜ろうと椅子から降りたが、強い爆風が部屋を襲い、しゃがむ寸前で体が吹き飛ばされた。向かいの建物の破片が壁を貫通して、隣の寝室はめちゃくちゃになった。これがリビングに来ていたら即死だっただろう。


「大丈夫か」


 爆風が落ち着いてから、後藤さんが雨音に負けそうな声で僕に言った。


「背中と足に少しガラス片が」

「ははは…これ中々痛いなぁ~」


 後藤さんは少し嬉しそうに笑った。パチパチと家が燃える音がする。


「あっ、後藤さん、血が‥‥ 」


 炎の光に照らされ、頭部と腹部から酷く出血しているのが見て取れた。僕を守るようにして覆いかぶさっていたのだ。吹き飛ばされたガラスや壁、机の大きな破片がいくつも体を貫いていた。

 雷が「ざまぁみろ」と言っているように、何度も吠えた。風が強くなり瞬く間に部屋は水浸しになった。外の炎が反射してきらきらしている。あぁ、綺麗だな。


「なんっっっでここに落ちるんだよ」


 後藤さんはずっと笑っていた。


「ねぇ後藤さん、それより—— 」

「今更意味ないって。分かりきってるだろ」


 お腹に力が入らないのか声が掠れているが、勢いを増す炎が代わりに後藤さんの心を代弁した。そして、恐らくわざとだろう、腹部に刺さっていた大きなガラス片を思いっきり抜いた。と勢いよく血が吹き出る。


「何してるんですか!!早く手当を───」


 後藤さんが、光の少なくなった目で僕を睨んだ。


「月雨、無駄なんだよ」

「明日コンビニ一緒に行くんでしょ!アパートの部屋回って食料を──」

「お前それ本気で言ってんのかよ」

「いつも通りを過ごした場所で出来るだけ長く過ごしたいって、この前言ったばっかじゃないですか!」

「とっくの昔にそんなもの死んでるんだよ‥‥ 俺も‥‥ 透峰が死んだ夜から既に」


 ほとんど開いていない後藤さんの目に、自分に対しての殺意が燻っている。

 五百メートルほど先にクレーターのようなものが出来ている。辺りは一面火の海だ。


「ほら、まだお酒も残ってますし、応急処置だけでもしてどこか安全なところにでも逃げて、一緒に飲みましょう。また乾杯し—— 」

「いい加減にしろよお前‥‥ 。頼むから終わらせてくれ。透峰がいる向こうに行けるんだよ、なぁ分かるだろ、これで万々歳なんだよ‥‥ !分かれよ!なぁ!月雨!」


 前に一度だけ話してくれたことがある。火事で亡くなった後藤さんの彼女の事。僕と同じく、紺中夢の所為で全てが狂ったこと。

 後藤さんの顔は喜怒哀楽、艱難辛苦(かんなんしんく)のすべてがないまぜになった表情で、それが涙で濡れてさらにぐちゃぐちゃになって、今にも崩れてしまいそうだった。


「俺は今、嬉…しいんだ。すごく、嬉し、いんだ。やっとだ。会えるんだよ。やっ‥‥ と」


 後藤さんは膝に手をついてゆらゆら立ち上がろうとしたが、力が入らずに横に倒れた。

火の手と一緒に赤い水が床に広がっていく。気が動転しながらも、自分のシャツを脱いで、出血箇所を強く押さえる。

 国民保護サイレンは数分前に送られていたようだ。電波がつながりにくかったせいで届くのが遅れたのだろう。


「助かっ、たとして、なにが残る」


 僕は呆然として、何も話すことが出来なかった。


『これから、もっと悲惨な、こ、とに、なる』


 眩暈(めまい)が酷い。咳と同時に口の中に血の味が広がる。


『おい月雨!どうなんだ!』


 腹部の出血が酷くなるのもお構いなしに、僕の胸ぐらを掴んで血走った目で怒鳴った。


『どこに希望があるんだ』


 しかしすぐに力が入らなくなり、腕はボトッという音を立てて、まるで物みたいに床に落ちた。


『透峰は、春野ちゃんは帰ってくるのか。お前の家族は、この町は?』


 僕の手は後藤さんの血で温かく、ベトベトになっていた。シャツは水につけたタオルみたいに血をたっぷり含み、ほとんど意味をなしていなかった。僕の手にも力が入っていなかった。


『ほら、言えないだろ』

「ぼ、僕は‥‥ 」

『何をしたところで手遅れなのが分かってるからだ。心も体も』

「ちが—— 」

『じゃあなんで今お前は幸せそうな目してんだよ』

「え」


 血と雨で鏡となった床を見る。目以外が悲しそうで、酷く不気味な顔がこちらを覗いていた。


『死ぬ機会を探してたんだ。ずっと』

「ちが、う」

『だから通報しようともしなかった』

「だってそれは通報したって──」

『感染症にかかるためにわざと階段で転んだのは?コンビニの割れたガラスにわざと足を当てたのは?汚水だってことくらいわかってるはずなのに、わざとシャワーを浴びて傷口から感染しやすくしたのはなんでだ』

「うるさい!!!」


 自分の声に驚いて、辺りが鮮明に見え始める。 迫る火の手、目の前のまだ温かい死体、僕の口から漏れる血液。

 僕はいつから自分と会話をしていたのだろう。現実との境が分からない。


「後藤さん‥‥ 」


 声を出したからか、僕は酷く()せてまた血を吐いた。少し手足がしびれ始める。こんなに早く症状が出るんだな、と冷静に思う。

 後藤さんの顔はとても安らかで、まるで幸せな夢を見ている様だった。

 無宗教の癖に一丁前に手を合わせて、それっぽく涙を流している。この涙は恐怖からか、悲しみからか、辛さからか、それともようやく終われる幸せからか。

 でも、僕はいま死ぬ訳にはいかなかった。あと一つだけやりたいことがある。僕が死ぬ前に、身体が動かなくなる前に一つだけ。


 力を振り絞って炎の無い場所を足を引きずりながら歩き、何とか大通りに出た。息をすると喉や肺が痛む。ガラス片が刺さったところが脈に合わせてズキズキと激しく痛むのが分かる。

数秒後、後ろの方でアパートの爆ぜる音が聞こえた。

 5分程歩いてようやく学校に辿り着く。電気は消えており、まるで廃墟のようだ。

 駐車場にあった車止め用のコンクリートブロックで、ガラス張りの入り口をなんとか割って中に入る。警報なんて勿論鳴らない。


 ポケットに入っていたスマホのライトをつけて、壁にかけてある鍵の中から一つを取る。この学校の練習室に一つだけだけ、グランドピアノの置いてある部屋があるのだ。

 その部屋へ繫がる螺旋(らせん)階段を登る。2階の一番奥へと歩く。それは、六畳一間の狭い部屋でいつでも奏者を待っている。

 前に春野の部屋を整理してた時、引き出しの奥にあった小さく折りたたまれた譜面を見つけた。それをピアノの譜面台に広げて、軋む椅子に座る。


『』


 題名はなかった。代わりに、小節の頭に「4.20」と書かれていた。

 春野ほど譜読みは早くないが、楽譜を稚拙(ちせつ)になぞるくらいはできた。

 鍵盤に指を乗せると、いつもの優しい冷たさで僕を迎え入れてくれた。


 オクターヴ低いグレゴリオ聖歌「怒りの日」の冒頭部分が延々と連なっている。地を這うような音の上に、変奏曲のように次々と旋律が重なり、絡み合い、アクセルを踏み続ける。さながら嵐のような音の渦が病的なまでに繰り返される。


『私が失敗作だという事がどんどん証明されていく。』


 リピートが終わると音数が段々減り、深呼吸よりも遅いテンポになる。


『ようやく楽になれる、そう思った。嬉しかった。』


 最後に小鳥のような高音のみが同じ旋律をなぞり、歌が終わるのを待たずに殺される。わざとだろうか、あまりにも不自然だった。

 次に書いてあったのは「4.25」。

 世界で一番澄み切った清流を思わせる、ただただ美しい3拍子の懐かしい唄だった。


『頭が空っぽになっていく感じがする。』


 終わりに近づくにつれて水滴のようになっていく。その一粒一粒に夕焼けが詰め込まれている。


 曲は途切れず、5.5。

 ドシドラシソララ———— 。暴力的な「怒りの日」が、さっきまでの憧憬(どうけい)を叩き割る。


『何回も連絡が来る。怖い。怖い。怖い。怖い。今日も部屋を訪ねてきてドアを思いっきり蹴られた』


 打って変わって、母親が赤子に歌う最期の子守歌のような「5.18」。


『忘れることがこんなに悲しくて怖いなんて、想像もつかなかった。』


  「4.20」「4.25」「5.5」「5.18」「5.20」、全て春野が日記を書いた日だ。そして途中で終わっている「5.20」を、死ぬまでに完成させなければいけない。だって分かりやすく「続きよろしく!」と愉快に書いてあるから。僕にとってそれは、命を絞って弾く十分な理由に成りえた。


 きっとこの音だけは春野に届いているはずだ。彼女への、そしてこれから死ぬ僕への鎮魂曲。


 さっきから手のしびれが酷い。ガラスの刺さった腕や背中、階段で擦りむいた傷口が塞がらず、血が止まらない。意識も朦朧(もうろう)としている。


 僕は抑揚をつけて、リズムを揺らし、音を間違えながら鍵盤を押し込む。きっと彼女ならこんな風に、わざとらしいくらいドラマチックに譜面から出て行く。


『コンビニ行こうよ。‥‥ は?うっさいおきるよ!ほら!はいはい準備準備!』


 とても鎮魂曲とは思えないが、僕をいつも連れ出してくれた彼女にぴったりだ。

 僕の指を何かが動かしてくれている様だった。彼女は家で練習している時、話しかけても気付かずに、目を閉じてひたすらピアノを弾いていることがしばしばあった。そうか、こんな感覚だったのか。


 交響曲のフィナーレを思わせる壮大なフレーズに特大の終止符を打ち、冒頭の「怒りの日」を僕の息と同じくらいか細く延々と弾き続ける。


 そろそろ限界だ。


 春野に言わなきゃいけないことが沢山あった。

 路地に咲く雑草みたくどこにでもあって、何でもない〝いつも〟を春野と食べるだけで幸せだ、と。

 上手く自分を愛せなくても、自分を醜いと思ってても生きてていいよと、僕と過ごしてくれてありがとうと何度も言えたなら。

 失敗作などではないと。君の全てが好きだと、自分自身にも彼女にも伝えておけば何か変わったのか。いや、あいつはそんな言葉なんかで変わるような人じゃないか。引くくらい頑固だもんな。


 気が付いたら椅子から滑り落ちて、僕は地面に倒れていた。

 傍に落ちた譜面の裏側を震える手で持つ。これを見つけた時の記憶を引っ張り出して内容を思い出す。

 春野は昔から「あ、こんなところに!」みたいなのが好きだった。もっと探せばあったりしたのかな。もう燃えちゃってるかな。


『はるはきっと自分を責めると思うけれど、何も悪くないよ。ほんとに。いやまじで。

これは私が勝手にしたこと。

みんな心の中では分かっているはずなのに、この期に及んで希望があるふりをするなんて、私にはとても無理だった。

私の周りにいる皆が愛おしくて、同時に憎かった。

私は弱かった。それだけ。

まぁそれはいいとして、私の処女作どう?気に入った?何回も弾けよ、分かったな?

こっち来る時までに暗譜しておくこと!課題ね。

それじゃあ、またね。


(それはそれは素晴らしい同居人の)白石春野より』


 ごめんな春野、覚えるどころか通してすら弾けなかったよ。引っぱたくなり殴るなりしてくれて構わないから、「早いわあほんだらぼけなす!!!」って出迎えてくれ。


 真夏の太陽を直視した時のように目が眩む。いつの間にか春野の音は止んで、あの流れ星のような耳鳴りがずっとしている。

 突然脳の奥から溢れ出てきたのは、昔、僕の周りにいた友達たちの声や、親の事、春野との夜の散歩、閉じこもった日々、後藤さんとの乾杯。これが噂に聞く走馬灯か、悪くないな。


 知識欲がもたらす技術の進化に伴って増加した、「いつも」同士の摩擦。底なしの支配欲がもたらす生存欲の衝突。紺中夢や戦争が生まれるのは必然だったのだろう。

 後藤さんがあんな顔をしていた理由がわかった気がする。この世の希望の有無は、死へ向かおうとした時、心に着けられる足枷(あしかせ)の有無だ。


 春野、僕は今とっても幸せだ。死ぬというのに、体と心がこんなにも軽い。

 死の向こうの春野だけが希望でよかった。

 今までの人生で一番心が安らいでいる。


 近くで何かが爆発している。遠くから救急車と消防車のサイレンと母の子守唄が聞こえる。手足のしびれはやがて全身を支配し、昔の治った傷口たちまでが開いてダラダラと血を吐いている。咳が出るのに息が上手く吸えない。


「は、る、春野‥‥ 春‥ 」


誰かの足音が近づいてきた。


———— ◇———— ◇———— ◇————



 肺の空気を全て使っても、私の名前を呼ぶ彼の声は蚊の鳴く声にも満たない。

 長い長い走馬灯に瞬きすら忘れて、鼓動も呼吸も少しずつ弱くなっている。彼が消えていく。

境界が無くなっていく世界で最期に何を見て、何を思ったのか。彼の顔はまるで幸せな夢を見ている様だった。


 私がはるの異変に気付いたのは、去年の12月頃。

 夜中、流れ星の轟音と一緒にドタバタする音で目が覚め、リビングへ向かった。私の部屋以外の電気が全て付けられていた。


『はるどしたの?』


 立ったまま机に向かって急いで何か書き殴っている彼に声を掛けた。私に気がついた彼はふっと血走った目をこちらに向け、眉を上げた。


『あ、後藤さんこんばんは。まーた飲んでるんですか』

『えっ誰』


 それきり何も言わず、焦点の合わない目を揺らめかせて、ぐちゃぐちゃに丸めた紙を床に放って、「おやすみ~」と言ってゆーらゆらとベッドに戻っていった。


 彼の丸めた紙をなんとなく広げて見てみると、なにやら物語のようなものが書かれていた。新しい曲をモチーフにしたやつでも思いついたのかな、出来たら一番に聴かせてもらおう。そんな呑気なことを考えて、はるが奇行を起こす度に自分の寝室に原稿を貯めていた。


 はるの奇行が無くなるまで我慢して、完結したらはるの前で一気に声に出して読んでやろうと思っていたけれど、5回目の夜、我慢できずに読んでしまった。「春の路地」が1章までと、「寝室から」が2章まで完成していた。ありえないほど筆が早い。

 さっきもそうだったが、まるで夢で見た事を忘れないように急いで書き起こしてる様子だったのだ。



 その夜は眠れなかった。


 私の知っている月雨はるは、完全に作品に食べられてしまっていた。

 何がそうさせたのだろう。紺中夢?他の病気?そうなってしまう程に、心が削られてしまっていたのかな。


 だとしたらなんで私、気づけなかったんだろう。

 一番近くで彼を見ているはずなのに、何も出来なかった。ちょっとは理解出来てるって思ってた。

 私のせいで、と思ったところで、私は私にひとつ提案をした。


 やがて、ベランダで「後藤さん」という架空の人物とお酒を飲み交わすようになる。

 誰が見ても異常な光景だが、嫌われたくなくて彼に言い出せなかった。

 そのまま彼は小説に書かれた通りに生き始めた。


『ねぇ、みてみて!月すんごい綺麗。緑色だよ』

『んなわけないじゃん。俺より頭湧いてんじゃない』

『え—— 最悪。見てよー、あと3秒で引っぱたくよー』

『言ってろ』


 私も彼に倣って、小説と同じように生きることにしたのだ。

はるが見ている世界の一部になることが、私の一番の幸せになった。作品の奴隷になり下がっても、彼とまた一緒に生きられることが嬉しくてたまらなかった。

 4月20日が来て、私はそれからずっと紺中夢患者を演じることになる。


 彼の為とはいえ、家族や大切な友人たちがあからさまに傷つくのを見るのは、中々辛いものだった。しかしもう後戻り出来ないところまで来てしまった。


 そうやって、私はどんどん憔悴していった。そして迷いが生まれた自分に明確な憎悪を抱いた。


 東尋坊(とうじんぼう)で飛び降り自殺をするという筋書を破って福井の実家に帰る準備をした後、5.20以外を完成させた楽譜の裏にこっそりと手紙を書いた。

 彼が彼が私の曲を弾き終わるところで『春の路地』は終わっていたので、小説外の私からの遺書のつもりで。


 やがて、世界情勢ははるの書いた通りになった。私はスピリチュアルは信じない派なのだが、春の路地3章からの気温上昇と終章に関しては予知夢だと確信した。


 奇跡的にここに書かれてある通りに物事が進めば、死ぬ前にこの楽譜を見てピアノを弾くは

ずだ。その時に彼はもう一度この手紙を思い出す。そう思って。


 月雨はる、白石春野、後藤彩里、陽菜元透峰。

『自分の作品に殺されるなら本望だよ』

 いつか私と散歩した時に嬉しそうにそう言っていた。ならば作品に出てきたこの四人は、はるにとって願いを叶える神様のような存在だ。


 だから私は、作品の白石春野に成りすました。

 私と彼の足枷を外すために、私は神様になった。

 

 はる、どうか歪んでしまった愛を許してください。


「はる、おやすみ。すぐ行くからね」





 冷たくなった想い人の頬を愛おしそうに撫でて、白石春野は自分の首を大きなガラス片で掻き切った。


 今年で一番明るい満月が、真っ暗な9月の町をさらさらと照らす。


 全てが不完全で醜く、しかし何とも幻想的で美しい夜の事だった。

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