第1部『寝室から』3- 空想
6月27日 -夢-
抜け殻が似合う暑い日は、気付けばあの日の事を思い出している。そしてまた夢を見てはぼーっとした心地の良い感覚に沈んでいく。
近頃、夢の中の女性の顔や声や声がぼんやりとし始めてきた。誰なのかは分からないが、どこかで会ったような気がして、目覚める度にすこし寂しさを感じる。深い眠りに就けているという事なのだろうか。それとも。そんなことを思って時計を見るともう出かける時間だった。そうだ、そろそろ散歩に行かなくては。
知らない間に傷だらけになっていた体を起こして、空のペットボトルに濁った水道水を注ぐ。そして着替えもせずに裸足のまま階段を降りて、玄関の冷たいドアノブを捻ると、今日一日の疲れをめいっぱいに含んだ夜風が頬を抉る。だが今の僕にはこれくらいが丁度いい。
今日も学校に行けなかった。2年生の時からしていたコンビニのバイトも休みがちになり、結局一年たたずに一昨日辞めてしまった。
ある日突然ヴァイオリン製作の師匠が変わり、編入生が一気に入ってきたのか、同級生や同じ科の先輩などもほとんど知らない生徒になっていた。そしていつ間にか不登校とやらになってしまっていた。情けない話だ。
壮大なパレードはどうやら死んだようで、町はガランと大きな音で満たされている。二階の僕の部屋の寝室からこちらを見下ろしているのは、もはや壁と化したレベル5の遮光カーテン。
天国なのではないかという気分で過ごした穏やかな日々や、暗闇と恐怖と興奮と希死念慮をミキサーにかけたような日々を思い出しながらその場を後にする。さよならを言った気分だった。もうあの部屋には帰ってこない気がしたから。
歩いている。
この時間はもう誰も通らない、寂しい道路の真ん中を歩いている。
何も考えずに歩いている。
何も感じないように、無心で足を動かすことだけに意識を向けて、歩いている。
六月にしては随分冷え込むなとか、夜風に竹林の香りが混ざり始めたなとか、川のせせらぎとか、遠くで暴走族の鳴く音が聞こえるなとか。全部消えてしまえばいいと思ったら、消えた。ただ一つを除いて。
知らない女の人が僕の名前を何度も呼ぶ声だけが頭の中に響いている。笑顔で泣いている様に聞こえる。ああ、うるさいなぁ。
そのまま僕は歩き続けている。
いつかこの通りを一人で全力疾走した気がする。コンビニまでわざわざ缶コーヒーだけを買いに。馬鹿馬鹿しい、なんでそんなことを。どうしても思い出せない。思い出せなくてもいいか、どうせ大した理由はないんだ。
まだ歩いている。コンビニを通り過ぎると、寂しそうで冷たい色の街灯がバス停の近くで地面に突き刺さっていた。その真下には白骨化してすっかり苔の住宅地になった自転車が、ずっと持ち主の帰りを待っていた。
天井を見上げる。
落ちる寸前の花火みたいな月と、隣には木星。オリオンのベテルギウス。左には火星。少し迷って北極星。
『あかーいめーだまーのさーそりー』
昔母が子守歌に歌っていた歌を口ずさむ。
気付けば4キロくらい歩いていた。道路は無駄に広くなり心なしか月も近づき、亡くなった可哀そうな街灯も多くなった。
交差点の青信号がやけに眩しく見えた。シリウスが過ぎそこにあるな。そう思った。その光の奥の美しい記憶にうっとりしていた。足が止まっていることに気付かなかった。
後ろから迫ってくる大型トラックのクラクションとヘッドライトが僕を抱きしめる。
ドッッッ———————
飛び起きると、首に汗がいくつも流れるのを感じる。青白い信号とトラックの衝撃を思い出す。4秒吸って、4秒止めて、8秒吐く。
何時だろうとスマホを見ると、まだ11時45分。日付は跨いでいない。
何百回か分からないため息を吐いて、ベッドの傍の窓から身を乗り出すようにもたれかかる。
懐かしいなぁ、なんだか星にくるまれたみたいだ。
「またか」
今日もまた月の匂いが薄くなっている。小学生の頃から月の匂いがたまらなく好きで、十五夜には必ずベランダに寝袋を持っていて寝ていた。
もう吸えないってくらいめいっぱいに空気を吸い込むと、誰よりも優しくなれそうな、きらきらふわふわした感覚が体中を駆け巡る。そうすれば、ものの数分で一年で一番深い眠りに就くことが出来る。
黒い流れ星の轟音なんて気にならない位の、どんな不眠症患者も眠れる幸せな眠気。深い眠り。深い眠り‥‥。
月から降り注ぐそれが幸せな眠りをくれる、国民にとって大切な「月雨の日」。
今日も淡い期待を片手一杯に月の匂いを嗅いでみるのだが、やっぱり大したことなくて肩を落とす。
ふと気配を感じて右を向くと、ベランダでくつろいでいた隣人と目が合った。二十代後半の、何処にでもいそうで少しかっこいい男性。
「お!久しぶり。会いたかったぞう」
「え、あ、はい」
「見てたんですか‥‥」
「んまぁ」
すんごくフランクに話しかけてくるもんだからびっくりした顔で話し続けていると、「月雨少年もベランダおいでよ」と誘われ、言われるがままにベランダへ出た。というか話したことないのになんで名前知ってんだよ。
困惑が表情に出ていたのか、「ごめん急に。今お酒飲んでて」と、右手に持っている琥珀色の液体の入ったビアグラスを掲げる。
「よかったらどう、一緒に遠隔乾杯でも。あれ、まず君飲めたっけ」
「えっと、今年の3月に」
「ああそう!そりゃおめでとう!」
遠隔乾杯ってなんだとと思いながら、部屋の奥の冷蔵庫から忘れ去られたビールを取りだしてベランダへ戻る。窓の桟を跨いだ時に鳴り始めた緊急アラートが、いつも通りやかましい。
「すみませんグラスとかなくて‥‥いつもそのまま飲んでて」
「はっはっは!真面目だなぁほんっとに!いいよそんなこと。よっし、では」
彼がグラスを僕の方に掲げようとした瞬間、ゴオオオオと物凄い轟音が夜空の肩を掴んで激しく揺する。
状況に反して、隣人がニヤッと笑う。
「流れ星に!!!!」
彼は轟音に負けないくらい大きな声で叫び、右手に持ったグラスを勢いよく夜空へ突き上げた。中身が3割零れる。
僕も負けじと大袈裟に息を吸って、喉が千切れてしまえ!と思いながら叫んだ。
「流れ星に!!!!」
僕の缶からパシャッと残念な感じに零れて、彼がさっきと同じくらい大声で笑う。つられて僕も大声で笑う。
二人して馬鹿みたいに笑いながらそれぞれ酒を煽る。この感覚は一体いつぶりだろう。
あぁ、こんなちっぽけな下らないことに幸せを感じる。
「これって、最低で最高ってやつですか!!」
「ってやつだな!!」
「場所が場所なら殺されますねこの乾杯!!」
「ははは!!確かに!!最低だけど、この酒は間違いなく今地球で一番うまいよ!!!!」
やがて遅い流れ星のようなミサイルと轟音は彼方へ消えて、虫の声が堆積した夜に再び抱かれる。
「2週間くらい歌声も物音もほぼしなくなったから、死んだのかと思ってたよ」
「なんてこと言うんですか」
遠くの方で消防車や救急車のサイレンが響いている。隣人がビクッと体を震わせて、しばらく音のする方を眺めていた。
「最近火事多いねぇ‥‥。そういや、春野ちゃんは元気にしてる?」
「はるのちゃん?」
「そう春野ちゃん」
「はるのちゃん‥‥」
「うん春野ちゃん」
何のことを言っているのだろう。先輩にも同級生にも、元バイト先の知り合いにも”はるの”という人はいない。というかまず初対面なのにどうやって知り合いの事を知り得るのか。
「えーと、ほら、一緒に住んでる女の子。大分前こうやって話した時に教えてくれたじゃん」
「前にこうやって話してないですけど」
一瞬女の人が頭を過るが、一瞬で消えてしまう。
「ん?え、なに、同居人の事忘れることとかある?」
切ない焦燥感がヒュッと心を引っ掻く。しかしそれもまた一瞬で、大事なことではないんだろうと自分を安心させる。
部屋の奥で冷蔵庫がヴーーと唸って、僕は肩を思いっきり揺らして驚いた。それを見た彼がケタケタ笑う。人のこと言えないだろと舌打ちすると、家鳴りがユニゾンしてきた。
ひとしきり笑った後、彼はゆっくりこちらに向き直り、神妙な面持ちで僕に話しかける。目は合っているのにずっと遠くを見ていて、懐かしんでいる様にも、悲しんでいる様にも、愛おしそうに思いを馳せている様にも見えた。
「君も彼女も、きっと、海へ行ったんだね」
「海‥‥」
「春野ちゃんの様子が最近おかしいんだって、君は僕に前話してくれたんだよ」
僕が知らない僕の記憶を、彼が話し始める。
「紺中夢に罹ったみたいだけど、治療を頑なに拒んでいる、どうしようって。喧嘩してる声もたまに聞こえてたし」
まるで他人の話を聞いているようでなんだか気味が悪かった。
また感情が表情に出ていたのか、「こんな話されても困っちゃうよね、ごめんごめん」と彼は笑って、また話し始める。
「君を傷つけるつもりはないし、これはただの憶測なんだけどね」
缶ビールの結露がぽたりと足元に落ちる。
「春野ちゃんは、全部忘れたかったんじゃないかな。家族も友達も自分も、そして君の事も」
山と空の色が仲たがいし始めて、町が夜明けの準備をしていることを知る。でもきっと今日は陽が昇ることはないだろう。と、当たらない天気予報がいっていた。
今日も、無題の人生の表紙に埃が降り積もり、それを払ってやる。
またつまらない第1章が繰り返されそうになっているが、もうすぐ確信に変わってしまいそうだ。
「後藤」と名乗った謎のフレンドリー遠隔乾杯酔っ払い隣人とおやすみを交わした後、それを早速嘘に変えて机に向かう。
震える手でペンを持つ。
今日も足りない僕は、それを埋めるように詩を書き続けなければならない。そうしないと死んでしまう気さえしている。自分の心を泥沼から救ってあげられるような歌を。これから先も僕を塗り潰さんとする影たちに捧げる歌を。アポなしで来る死にたい夜に寄り添って、背中合わせで一緒に泣いて、眠りに就くまで傍で見守る歌を。
現実を夢に持ち越して、それをまた現実に持ち越して、休む間もなく延々と創作を続ける。息が続く限り、創作は続く。過去の感情たちとこれからの感情たちの摩擦が、こうして今指を動かしている。
埃塗れのアコースティックギターの弦を乾燥した指で弾けば、深海からくみ上げたインクで満たしたペンを紙の上で走らせれば、カスカスになった声でメロディーを拓いていけば、僕はどこへでも行けた。
嗚咽しながらでも、それを旋律に変えて小節へ落とすのだ。
溢れた感情、零れそうになった感情を。
これからの景色を。
手にしたすべての温度を。
忘れたくて粉々にした、いつかの夢を。
それらを出来る限り集めて、消えないように、忘れないように。それくらいしか僕にできることはないのだから。
当たり前だけど失ったものは戻らないし、思い出なんて明日にでも簡単に汚れる。
幸せは一瞬で木っ端微塵になるし、大事なことは肝心な時に限って身を隠す。
今の僕は、ニコニコ笑いながら、常に心と体から血液をダラダラ垂れ流している。
こんなにも醜い。
こんなにも憎い。
こんなにもつらい。
こんなにも儚い。
こんなにも悲しい。
こんなにも苦しい。
こんなにも痛い。
こんなにも虚しい。
そしてそのすべてが、どうしてかこんなにも美しい。
これがいつまで続くのだろうか。僕はいつまで生きられるのだろうか。
死ぬ間際、すべてに「ありがとう」と言える人生を作れるのだろうか。
思い出して「よかった」と言える日々を積み上げられるのだろうか。
あと何回歌えば、何回泣けば、あと何回叫べば、祈れば、悼めば、笑えば。あと何回。あと何回。あと何回。
頭が沸騰しそうになりながら僕の一部を抉りだし終えて、ようやくギターとペンを置いた。
大きく欠伸をして、椅子に全体重をかけてのけ反る。喉が渇いたな。
水道水を飲みに席を立った時、ブブッとスマホが震えた。
[昼の授業終わったら、すぐそこの定食屋行こうや久しぶりに]
目を擦って、学校の先輩からの”他愛のない”を確認する。いや、今回はちょっとだけ跳ねた”他愛のない”だ。
[いいですね、いきまっしょ]
久しぶりにひりひりする指先で、話す様に画面をスワイプする。
[話題に出すの嫌かもだけど、あの子が行方不明になってから君ろくなもん食べてな
いでしょ。奢るから好きなもん食べな]
[あの子って誰ですか?]
遮光カーテンから淡い光が差している。天気予報はやっぱり当てにならないな。
カーテンと窓をゆっくりと開ける。桟のキュルキュルという音を合図に少し冷たい風が流れ込み、肺と部屋を満たしていく。
部屋をなんとなく見渡す。僕の物じゃないものが幾つもあることに気が付いた。いつも部屋を暗くしていたせいか、使うものしか認識していなかった。
いつもより冴えた頭で脳みそを回す。
誰のものか分からない本、香水、無駄に多い食器、誰かに書き込まれたピアノの楽譜。しばらく立ち入っていなかった廊下の奥の部屋には、誰かが住んでいた気配が冷たくなってそこに横たわっていた。不用心に鍵の開いた窓を開ける。
———そういえばさ、
頭のずっと奥から声がして、おもむろに顔を上げる。頭の中でまた誰かが言う。
———んや、私の前世コーヒーだから無理。
女性の姿が浮かぶ。確かに声がしている。僕を何度も呼んでいる。
もう少しなのに。すぐそこにいるのに。
———もう行かなきゃ。
待ってくれ、お願いだから。
——— 行かないで。
消えないで。もう何も忘れたくない。
記憶の中でぱちっと合った彼女の瞳が、顔が、オリオン座が、空と海が、飲み終わっていない缶コーヒーが、酷く美しく憎い彼女の笑顔が、すべてが体中を駆け抜けた。
「春野‥‥!」
さっき書いた詩は、あの夜の事だったのか。ゼロから作ったつもりだったが、脳の隅っこでどうやら生きていたらしい。
「春野」
勝手に口から彼女の名前が零れる。
春野。春野。春野。
愛おしい春野の全てが、もの凄いスピードで流れてくる。
5月20日、彼女は僕が眠りに就いた後に消えた。
周りの人のことをどんどん忘れていく彼女の事をもっと気遣ってあげれば。隣にいれば。あの時無理やりにでも病院に連れて行っていれば。いや、病院に行かなくても彼女のためにもっとできることはあったはずだ。もっと。もっと‥‥ 。そういう、切れ味の悪いナイフで傷口を何度も切るような後悔をしているうちに、いつの間にか軽度の紺中夢に侵されていたらしい。
しかし、そのエゴと後悔には全く意味がなかった。
春野の部屋のサイドテーブルに分かりやすく置いてあったノートを開く。
『4月20日』
春野の芯のある筆跡に思わず涙腺が緩む。
『家族、大好きな人、学校の友達、先生、皆が憎い。
皆を愛してるけど、素敵すぎて、憎い。怖い。
私が失敗作だということが、どんどんどんどん証明されていく。
紺中夢になってから皆騒いだり悲しんだりするけれど、私は違った。
ようやく楽になれる、ありがとうって。そう思った。嬉しかった。こんなこと誰にも言えない。』
『4月25日
症状が出始めて、今日で5日目。同級生を6人忘れたらしい。
皆の目線が怖い。ほっといて。
頭が空っぽになっていく感じが気持ちいい。
明日はピアノのレッスン。』
『5月5日
知らない人達から心配のラインが何通も来る。たまに電話も来る。曽部先生っていう人から何回も連絡が来る。相談していた人とのトーク履歴を見る限り、ストーカーみたい。怖い。怖い。怖い。怖い。今日も部屋を訪ねてきてドアを思いっきり蹴られた。怖い。とりあえずスマホの電源を切った。お願いだから、ほっといて。
学校に知り合いがいない。学校に行きたくない。』
『5月18日
学校に行かなくなった。
バイトもやめた。
家族を忘れられたみたい。
あと、大好きな人と喧嘩をしてしまった。忘れたいなんて言えるわけない。
彼以外もう誰のことも分からなくなった。怖い、寂しい。
忘れることがこんなに悲しくて怖いなんて、想像もつかなかった。
でも、これでいいんだと思う。私が望んだことだし。』
『5月20日
ほとんどの人を忘れられた。
さっき大好きな人が眠った。今日で最後だ。
本当は告白したかったけど、あの感じだと親友としか見てないよなぁ。残念。
好きだったよ、はる。大好きだったよ。書くのならこんなに簡単なのになぁ。
はる、好きだったよ。そして憎かったよ。
またはるとコンビニまで競争したかった。
また同じ家で電話したかった。
また近くの定食屋で柔らかすぎるうどん食べたかった。
映画観る約束守れなくてごめん。
もうコーヒーじゃなくてココアでもいいよ。
はるの事は不思議と全部覚えてる。あなたが作るものも、ちゃんと。
これからもあなたとの記憶を増やしたかった。
さようなら。さようなら。
この先、あなたが確かな誇りをもって生きられますように。
そしてどうか、あなたの夜が無駄に死にませんように。』
「なんだよ」
日記を閉じて、彼女のベッドに横たわる。
「なんなんだよ」
泣いていた。久しぶりに声を上げて泣いた。
開け放った窓から「やっと思い出したかばーか」という声が聞こえた気がした。
「うっせばーか」
もし気持ちに蓋をせず、素直に春野に渡せていれば、その憎しみは溶けたのかな。
『ねぇ、みてみて!月すんごい綺麗。緑色だよ』
ベランダではしゃぐ彼女の後姿をおぼろげに思い出す。
『んなわけないじゃん。頭の俺より湧いてんじゃない』
『え—— 最悪。見てよー、あと3秒で引っぱたくよー』
『言ってろ』
確かこの後、本当に引っぱたかれたと思う。いや多分引っぱたかれた、ということにしておく。後藤さんに聞いて音がしたかどうか聞いてみよう。もしベランダで飲んでいれば聞こえてる。有罪だったら沢山悪口言ってやる。死人に口なし。
出来る償いと言えば、彼女の残した呪いともいえる願いを胸に生きることくらいか。架空の希望と確かな絶望、穏やかさと虚しさ、それらの中に少しの誇りを混ぜて。
それとこれ以上無駄に自身の夜を死なせないように。
とりあえず、ゆっくりおやすみ、春野。
その日の夜から、あの夢を見ることは無くなった。
春野の遺体は東尋坊で発見され、既に部屋は引き払われているらしい。
自分も周りの人を数人忘れてしまったので色々と大変だが、周りの協力もあって何とかやっている。引くぐらい部屋が散らかっていたので、後藤さんに手伝ってもらった。代わりに晩酌付き合えやって脅された。あと奢れって言われた。大人って怖い。
今日もまた夜が平等に死んでいく。空が白む前に、僕はそれを書き留める。
朝日が夜を火葬して、その遺灰が星になる。月が香る。
走り続けるのは無理だから、時に立ち止まり、振り返り、腰を下ろして。
そしてベッドの隅っこでまた一つ物語が終わり、始まる。