第1部「寝室から」2-夜の散歩
【対人慢性健忘症について】
5年前に”黒い流れ星”が頻繁に流れるようになってから爆発的に流行した病、通称「紺中夢」。その夢の内容はどの患者も似通っていた。
夢の中で誰かと海まで行き、やがて海と空が反転して、空となってしまった海へ沈んでいく。もしくは相手が沈んでいくのを見る、というものだ。
そうした夢を重ねる度に、自分と関わり持つ人間との記憶が消えていく。その過度なストレスによって社会に馴染めなくなり、仕事や日常生活に支障をきたしてしまう。パニックを起こして周囲の人間を拒絶する例も少なくない。
先月は、ある地方都市の駅前の飲み屋街で、紺中夢の重篤患者が無差別殺人をしたのちに道路に飛び出て自殺したというニュースが全国放送で取り上げられた。
突発的で原因不明。外傷もなく、精密検査でも異常は一切見つからないという点は、一過性健忘症と一致している。
しかし、突発的かつ慢性的に、更に忘れる対象が限定的である記憶障害は過去に例がない。そして未だに根本的治療法が確立されていないため、五年が経った今でも患者の病状の悪化を食い止められずに、辛さを抱えたまま苦しむ患者が増加し続けているというのが現状である。
◇ ◇ ◇
5月20日
春野の紺中夢は、1ヶ月前の4月20日に一人の同級生のことをすっかり忘れてしまったことで発覚した。僕は何度も病院へ行くよう説得したが、何故か彼女は断り続けた。
それから一日ごとに、一人、また一人、時には二人と、彼女は忘れ続けていった。顔や態度には出していないつもりだろうが、春野の心にどれだけの負荷がかかっているかは想像できた。
4月30日
『春野、あいつのことあれからどう?なにか思い出せた?』
眠る前、いつもと同じように電話している途中で、今日忘れてしまったという春野の友人の事を聞いた。
『ううん』
でも知らない人の事を知らないって当たり前だし、特に何ともないよ。と、彼女は笑ってみせた。
『明日10時からピアノのレッスンだから、ちょっと練習してから寝るね』
おやすみ。と言い合った後、僕の眠れない夜が始まった。
入学当初から執拗に連絡を取ろうとしてくる先生に悩まされていた春野は、先生が家を訪ねてくるようになってから、ピアノの練習を夜中までするとき以外の時間は僕の家で過ごしている。そのため、僕はリビングにあるベッドで、春野は寝室にある布団で寝れるようになっている。春野がいない夜は久々で、なんだか不思議な感覚だ。
僕が眠れないのを察知して、春野がコンビニへの散歩に連れ出すのがお決まりなので、1時間経っても眠れないときは一人でゆっくりコンビニへ向かう。
「なかなか冷え込むな」
それもそのはずで、今日は朝からずっと雪が降っている。昼は雪が積もっていなかったであろう歩道に片足を踏み出すと、ギュっという感覚が足から伝わってくる。いつもながら狂った天気だ、と思いながら、イヤホンから流れる音楽のボリュームを上げる。
昨日は外壁がカメムシで出来ていたコンビニから煌々と光が漏れ出している。カメムシ退治に明け暮れていた店員さんも、心なしか今日は暇そうだった。
コンビニで買った熱いココアを片手に、国道から畦道へと入る。ピアノインストへ曲を変えて、目を閉じて夜目が利くようにする。
躓き続けて進まないヴァイオリン製作の課題の事。どれだけやっても上達しない研ぎ。順調に腕を上げ続ける先輩の事。師匠が僕に向ける笑顔の裏の呆れ顔。眠るたびに見る悪夢の事。堂々と町を焼く夕陽と部屋の隅に転がった埃。それらを雪をかぶった田んぼに投げ捨てようとするが、静電気を纏った薄いビニールのように皮膚にくっついて剝がれない。
澄んだようなピアノが僕の事を嘲笑っているかのように聞こえ始めたところで、踵を返した。
翌日、僕も丁度研ぎの練習をしたかったので、春野と一緒に登校していた。
「それじゃ、また後で」
「うん!自主練頑張って」
その時、春野が師事するピアノの先生とばったり出くわした。
「あら春野ちゃん!おはよう~。昨日の雪で道路凍ってて一瞬危なかったのよ今日‥‥でもスタッドレスに変えてもすぐ季節変わるでしょう?両方いける新しいタイヤ、誰か開発してくれないかしらね~」
いつも通り、穏やかな声でペラペラと1人でしゃべり倒している。しかし春野の戸惑ったような表情は、いつもお世話になっている人に対するそれとは程遠いものだった。
「あの‥‥すみません、どなたでしょうか‥‥?」
「なに寝ぼけてんのよ春野ちゃんっ!これから授業よっ」
彼女はこの学校に居るのが不思議なくらい優秀な先生で、春野も授業を受けた後は練習室に5時間ほど籠って鍵盤を叩き、辛いけどとても音楽が楽しいんだと話をしてきた。そうしてどんどん腕を上げていく春野を、先生はとても高く評価していた。
「ごめんなさい‥‥えっと‥‥」
申し訳なさそうに、というか怖がりながらそう言う春野の姿を見て、なんともやりきれない気持ちになった。
結局その日、春野は練習室に籠ることなく僕のアパートに帰ってきて、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。その日を境に、彼女は学校をよく休むようになった。授業で何かあったのかと聞いたら「ううん、特になんにも」と微笑んで、電子ピアノで同じ曲を何度も何度も繰り返し弾き続けていた。この世界から逃避するように、諦めたように、どこかすっきりとした顔で、ゆらゆらと体でリズムを取り、目を閉じて。
5月18日
その夜、不意に先生を忘れた日の事を春野が口にした。
「なんでレッスンの先生が変わったこと教えてくれなかったんだろ緒方さんって思ったんだけど、ほんとにそうなんだね。そっか」
そっか、と、自分に言い聞かせているように何度か呟いた。
ネット相談窓口やメンタルクリニック、精神科などで、本人が希望すれば気休め程度の緩和治療は受けられるのだが、春野は今も拒み続けている。
「心配し過ぎだって、大丈夫だから。はるこそ病院行きなよ。最近全然眠れてないんでしょ。くま酷いしよくふらついてるし、明らかに痩せてるじゃん」
「今それ関係ないだろ?話逸らすなよ。見てるこっちは気が気じゃないんだよ」
「このくらい大丈夫だって言ってるじゃん」
「そう思いたいだけだろ。自分に言い聞かせて麻痺させようとしてるだけだろ?このままじゃ誰の事も分からなくなるんだぞ。俺の事も」
「しつこいなぁ。私が決めることでしょ?気が向いたら行くって多分」
「多分って‥‥あのな」
「嫌だ」
「なにがそんなに———」
「もうほっといてっつっとるやろ!!!」
痺れるような彼女の怒鳴り声が止んだ後、部屋の全てが息を止めた。小さく春野が「ごめん」と呟いて、使い古された白いマフラーを首に巻き、黒いダウンを羽織って外へ出た。
僕も外の空気を吸おうとベランダに出る。昨日と同じか、それ以上に冷え込む夜だ。湿っぽい雪がまつ毛に静かに積もっていく。やがて春野がエントランスから出てきた。傘も持たずに、コンビニの方へ歩いていく。
もし春野がこのまま僕の事も忘れてしまったら、一体どうなってしまうのか。一人忘れる度に確かに彼女の心は抉られているはずだ。それなのに最終的に春野が自分の事をも忘れてしまったらどうなる?何もせずに放っておけという方が無理な話だろう。ただのエゴだということは分かっているが、最悪な結末を防ぐためにこのエゴは通さなければいけない。
その日は、まるで何かに引きずり込まれるように、身体か空気に溶けてしまう感覚と共に眠りに落ちた。
『そういえばさ、』
夜になると春野は、何事もなかったかのように僕に思い付きの夜更かしを勧めてくる。別の部屋で寝ているのだが、ドアを開けても少し声を張らないと会話ができないのが面倒で、こうしてスマホ越しに話すようになった。
『あの、ようやく眠くなってきたところなんですが』
『え、だめだけど普通に』
『普通にってなんだよ。鬼畜なの?今二時だよ?あと熱帯夜だよ?』
『なにそれうけるね』
『寝かせろ』
『無理。だめ』
『こっちが無理。だめ』
『んまぁ、そんなことよりさ』
『話の腰が折れる音が聞こえないのか』
『コンビニ行こよ、コ・ン・ビ・ニ・ニ』
『おもてなしに謝れ』
『ねぇ、着いてきてくれるよね?』
『‥‥しょうがないなぁ』
『ありがとう優しいんだねうふふふ』
『うわぁ‥‥』
こうやって引きこもりがちな僕を連れ出すのが、春野の日課みたいになっていた。ちんたら準備する僕を真似て春野もちんたらする。「コ・ン・ビ・ニ♪コ・ン・ビ・ニ♪」と小躍りする彼女を見て、「湧いてんのか」と小さく零すと「あ?」とガン飛ばされた。通常運転で何よりだ。
まだ眠りから覚めていない手のひらで、生ぬるいドアノブを開ける。「うい、はよ出ろ」と春野に背中をぶっ叩かれてこけた。
『っしゃ今日も競争だ野郎ども!!準備はいいかぁ!!』
『何人に見えてんの僕の事。やばいよ?』
もー!と立ち上がりながら春野の後を追う。もれなく二人とも運動不足なので、傍から見たらそれはもう滑稽だと思う。いつもほぼ同着で、今にも死にそうな息継ぎをして「疲れたね」と笑い合う。その時の春野の表情があまりに美しくて、その度に時間が止まることを願うのだ。この感じを僕はどこかで‥‥。展示ケースの中から心をこじ開けてくる絵画や、いつの間にか涙が流れるような音楽。エンドロールが終わっても立ち上がれない映画。そんなものを春野は幾つも持っている。きっと本人は気づいていないどころか、自分は何も持っていないとすら思っているだろう。
それが垣間見える度に一瞬で僕の感情たちはぐるぐる渦巻いて、「美しい」という言葉が「憎い」へと変換されてしまう。「お前の消費期限は明日だ」「生きる意味は無い」と断言されたようで。
『あ!ねぇ見て空!!ほら!早く!』
僕は言われるがままに空を見上げる。
四月末にオリオン座流星群か、10月に見られるはずだが。やっぱりこの地域は狂っている。
『きれいだね、春野』
『うん‥‥はる?』
『ん?』
『大丈夫?』
『え?』
『涙が』
『んや、別に。何でもないよ』
僕は靴紐を直すふりをして涙を拭った。
『ほらほら、はるが靴紐結ぶのへたくそなのは分かったからコンビニ入るよっ。たむろしてるヤンキーかよ』
『手出るぞ』
こうして僕らはコンビニへ、時に競歩で、大股で、スキップで、うさぎ跳びでノンカフェインの缶コーヒーを買いに行くのだった。
「ココアじゃダメ?コーヒーそろそろ飽きたんだけど」と抗議するも、「んや、私の前世コーヒーだから無理。譲らない。よってあなたもコーヒーにしなさい」という訳の分からない答弁を繰り出してきたので、大人しく諦めた。
それからはいつも通りだ。コンビニから徒歩5分で着く海辺に向かう。いつの間に出来ていた公園のブランコに座って、ほろほろと降る懐かしさを被った。
『あ、そうそう。こないだの続きなんだけどさ』
当時は言えなかった家庭での悩み。自称進学校から出ていた膨大な量の課題への恨み。登校中に、空から降ってきたアジが頭頂部にクリーンヒットしたこと。小学生以来連絡が取れなくなっていた友人との、バイト先での再会。そして時々心地よい沈黙。
『学校だるいねぇ』
『‥‥』
春野は何も言わない。
『ねぇ、明日学校いく?』
『‥‥』
『午前中には授業終わるからさ、こないだ借りた映画一緒に観ようよ』
彼女はただ微笑んで、遠くを見ながらゆっくり頷いて、深く息を吸った後、囁くように言った。
『もうすぐだね』
気付けば、オリオン座たちが僕らを口に含まんとするばかりに迫ってきていた。ふたご座、ぎょしゃ座、オリオン座に囲まれた放射点から、無数の蛍がやってくる。春野は飲み終わったコーヒーを足元にトンっと置き、ブランコを立ち漕ぎし始めた。それはまるで蛍たちと遊んでいる様だった。そのまま溶けて消えてしまいそうだった。
やっとこれが夢であると理解するも、紺中夢を前に明晰夢は役に立たない。
深い青の花弁が幾重にも重なってできた濃花色の夜空が、次々に水平線と溶け合う。その中のオリオン座流星群や蛍たちのあやとりが、音もなく海の中にものすごい勢いで流れ込んでいく。
僕も春野を真似るように立ち漕ぎをする。僕が足元に置いた缶コーヒーは、まだ半分残っていた。
『もう行かなきゃ』
僕のスイングがようやく安定してきた頃に春野は漕ぐのをやめて、夜空へと化した海に歩いていく。さっきまで公園だった場所はいつの間にか砂浜に戻っていて、缶コーヒーは跡形もなく消えていた。
『行かないで』
僕の情けない声は、彼女に届くことはなく蛍に吸い込まれていった。
こちらを振り向かずに沈んでいく背中を、ただ見送ることしか出来ない。
伸ばしかけていた細い腕は、肩にぶら下がるただの肉塊となった。
ここで身体が引っ張られて、夢が終わる————
目が覚めると、身体と記憶が少し軽くなったような感覚を覚えた。
やけに月と埃が明るい。
今夜、誰かが世界から姿を消した。