朽だら野の妖怪
なんにもない、なんにもない、なんだかさみしい朽だら野。
寒い寒い野の原で、ひとりのでっかい妖怪が空を眺めておりました。
黒くて丸い一つっきりの目ン玉で、朽だら野を照らす夕陽を眺めています。
「今日も空は綺麗だなぁ」
独特なイントネイションの声がしました。この妖怪のものでしょう。
橙色に照らされ、ひとり佇む妖怪の姿は「たそがれ」という言葉がよく似合います。体は大きいけれども、ひとりぼっちはさみしいなあ、なんて穏やかな声色が流れて、時が流れました。
カアカアとカラスが鳴き、バッサバッサと羽ばたきの音。うんと遠くで黒い群れが空の片隅を覆います。小さくても、おれたちはひとりでねえからさみしくねえよ、とでも言っているのでしょうか。
妖怪には、そんな風に思えました。
妖怪は、この朽だら野に棲んでいました。澄んでいました。ずうっとずっと、昔から。どれだけの長い時を、ここに佇んで過ごしたか、数える気にもなりません。
朽だら野に、風が吹きました。寒いなあ、と思いながらも、妖怪はそこにただ佇むだけ。
妖怪の全身を覆う体毛が、ふさふさと揺れました。
朽だら野とは、枯れ野のことです。冬になると、草花は全部、枯れてしまうでしょう? すると、草花の咲き誇っていた場所にゃあ、なぁんもなくなって、さみしい場所になるんでさ。
冬には多くの動物も眠るし、虫だって飛びません。人間も、寒い寒いと家ン中に引っ込むから、誰も遊びに来やしない。朽だら野には、だぁれもいません。だから、さみしいとこなのです。
そんなさみしいとこに、どうして妖怪がいるかというと、この妖怪はこの土地の冬を司る「朽だら野の妖怪」だからです。「朽だら野の妖怪」というのが、彼だか彼女だか区別のつかぬ、大きな塊の名前でした。
「はあ。冬は寒いけど、空気が澄んでて景色は綺麗だなぁ。花が咲かねえのがもったいねえだ」
朽だら野の妖怪は呟きました。
わかっています。わかっていますとも。冬は寒いから、花が咲かないのだということくらい。けれど、そう思ってしまうくらい、空は綺麗で、姦しい花たちがきゃっきゃきゃっきゃと咲き誇れば、それはそれは賑やいで、華やいだ景色になることが夢想できるのでした。
昔は、近くに村があって、人間が遊びに来たりなんかもしましたが、今はありません。
村は滅びました。
なんで滅びたかってェ……ここは「朽だら野」でなくっちゃあいけないからです。
朽だら野は枯れ野です。冬の枯れ野です。木枯らしが吹いて、花も草もなくて、寒くて、さみしいとこ。そうでなくっちゃあ、いけないんです。
朽だら野の妖怪は、朽だら野を朽だら野たらしめる存在なのです。つまり、朽だら野をさみしいとこに保ち続ける役割があるンです。
朽だら野の妖怪は、寒さをもたらす妖怪です。生きとし生けるものを凍えさせ、草木を枯れさせ、彼のいるところをさみしいとこにするのが、この妖怪の性質で、役割なのです。
悲しいことでしょう。さみしいことでしょう。妖怪だって、すごくひもじい。
けれどね、朽だら野の妖怪は嘆いても、生きることをやめません。
「約束したからな。会えないけれど、必ず逢わせようって」
長い長い時を生きる妖怪。人間よりもずうっと、いろんなことを経験して、いろんなことを思いました。
朽だら野の妖怪だって、このチカラを、お役目を、イヤと感じたことがあるのです。
それでも決まって、冬に立ち続けるのは……ほうら、ちょいと向こうの方に少し痩せ細った桜の木があるでしょう?
あれがあるからなのです。
木の霊は、こだまだとか、やまびこだとか呼ばれます。特にこの国では、桜はいっとう特別に思われていて、想われているから、桜の木の霊は「桜の精」だなんて、ちょっとしゃんとしたお名前で呼ばれたりするンですね。
朽だら野の妖怪は、桜の精と知り合いでした。
桜の精はかわいいかわいい女の子の姿をしておりましてナ、綺麗な紫の匂の襲色目に、天女の羽衣を纏って、ほら外ツ国で言うとこの「妖精さん」みたいなちっこさでさぁ。おっきなおっきな朽だら野の妖怪からすると、とってもめんこくて、人間に好かれるのも、よくわかるというものでした。
声も綺麗でねェ。桜の精が歌うと、鳥やもぐらも歌い出し、さみしい野の原も、たいへん愉快なことになりました。
でも、そンな桜の精に、朽だら野の妖怪はなかなか会えるモンではなくて。みんなが愉快にしているとき、朽だら野の妖怪は眠ってなくてはならないものですから、目覚めた冬が、いっそうさみしい。
そンな妖怪のさみしさを、やさしいやさしい桜の精は放っておけなくて、桜の中から、がんばって、妖怪に声をかけたのです。
「妖怪さん、朽だら野の妖怪さん。いつも冬を守ってくれてありがとう。わたしたちは弱いから、か弱いから、冬の中に佇むことができないの。だからね、わたしたちが眠るあいだ、野の原を守ってくれるあなたに、とってもありがとうって思っているのよ」
そよ風のような声色が、やさしく朽だら野の妖怪の耳をなぜます。さみしくって、さめざめ泣いていた妖怪は、その声にびっくりしました。
「おらのこと、嫌いでねえのか? おらのこと、必要だって言ってくれんのか?」
「もちろんです。当然です。あなたが冬にいてくれるから、わたしたちは春を迎えられるのです。ありがとう、妖怪さん」
ありがとう、という声が、凍えるような寒さを、少し溶かしてくれたやうな気がしました。
ぬくもりが、朽だら野の妖怪の心ノ臓を、あたためたのです。
だから、朽だら野の妖怪は、寒くても、さみしくても、役目を放り出すことはありません。
例えば人間が、火を放とうとしたら、その恐ろしい様相を存分に活かし、人間を追い払います。飛行機を飛ばして、爆弾を落とそうとしたら、飛行機をその丸太みたいな腕で払い落として、爆弾は丈夫な体で受け止めるのです。
そうやって、ほんとのほんとに体を張って、妖怪はこの野の原を守ってきました。
桜の精は、いつしか冬に声を届けられなくなったけれど、その歌声でみんなが愉快になるやうに、春のために、朽だら野の妖怪は力を振るうのです。
「バケモノめ!!」
「オマエのせいで、サクラガミ様は、お応えにならなくなった!!」
「オマエのような醜い存在がいるから、オマエが悪さをするから、サクラガミ様はお隠れになったのだ!!」
人間が何を喚こうと、
石を投げようと、
朽だら野の妖怪は、この枯れ野を守るのです。
桜の木が、枯れ朽ちたことにも、気づかぬまま。