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第11話 ゲノムの裏(2/2)

(エピゲノム?)

『はい、ここにあるのは人間のゲノムDNAの配列データです。それもstu2321のもので間違いありません。見てください。違う部分は必ずCシトシンTチミンに変化しています。これは同じDNAサンプルを亜硫酸水素塩バイサルファイトという薬品で処理した結果なんです』


 沙耶香は同じIDの二つのDNA配列を並べた。上が二階にあった配列。下がここにあった配列だ。確かに似ているが、ゲノムの違いは千塩基に一つではなかったのか。そもそも同じ人間の配列が違うというのはどういうことだ。


 首をひねる俺の脳内に六角形の化学式が二つ流れ込んできた。ほとんど同じ化学式だが、片方にはMeという記号がくっ付いている。それぞれ『C』『Cm』と書いてある。


『右がシトシン(C)、DNAの四種類の塩基の内の一つですね。左はそのシトシンがメチル化されたものです。バイサルファイト法はこの二つを区別するための実験方法です。CシトシンとCm《メチル化シトシン》はどちらもDNA配列としてはCですからGと結合します。つまり通常のDNA配列の決定では区別が出来ません。ですが、BAで処理するとCだけがUウラシルに変化するのです』


Cシトシン  +BAバイサルファイト → U

Cm     +BA      →  C


 ただのCはバイサルファイトによりU、つまりウラシルに変化する。確かUも塩基の一種だったよな。DNAではなくRNAで使われるだったか。つまりBAを使った化学反応で塩基の種類が変わる。一方、Cmつまりメチル化されたシトシンはCのままだ。


 要するにCmはメチル基という兜をかぶっていることで、バイサルファイトという薬品の攻撃から保護される。


『次に処理した配列をPCRで増幅します。相補的塩基の結合によりCはGと、そしてUはAと結合します。そして次の増幅によりGはCと、AはTと結合します。つまり、メチル化されていないCは最終的にAに変化、メチル化されていたCはCのままということになります』


C  +BA → U、U=A → T

Cm +BA → C、C=G → C


『実は違和感がありました。現代の技術なら血液の採取なんて手間は必要ありません。毛髪一本回収できれば可能です。ですがバイサルファイト法を用いるためにサンプルの量が必要と考えれば納得できます』


 要するに本来C(m)だったのがTに変っていたから、人間のDNA配列に見えなかったけど、実際は人間の配列だったと。しかも、その配列は財団が目を付けていたstu2321の遺伝子のものだった。


(理屈は分かった。でも、ゲノムの一部がメチル化されたらどうなるっていうんだ?)

『それがエピゲノムです。メチル化されたシトシンが多い領域ではDNAの鎖が凝縮します。つまり遺伝子が発現しにくくなるんです。つまり遺伝子発現はゲノムとエピゲノムの二重で制御されています。仮にstu2321を強く発現する変異《SNPs》を持っていても、そのDNA領域がメチル化されていた場合は、発現は抑制されます』

(……要するにメチル化されたCが多いということは、そこにあるstu2321が発現しにくくなるということだな。強力なスイッチを持っていても、そもそもそのスイッチに指が届かない)

『はい。受精卵の段階で決まっているゲノムと違ってエピゲノム、つまりCのメチル化は変化します。例えば三毛猫の模様は、エピゲノム制御で決まるので、クローン猫を作っても同じ模様にはなりません。過去には死んだ飼い猫をクローンで復活させる企業がそれで破綻しています』

『今の説明でこの部屋の本来の役割もわかったよ。ここは財団に属するモデルのエピゲノムの変化を測定するために使われているんだ。DPCの組み込みや活用によるエピゲノムの変化を観測していたんだろう』


 つまり真のスコアはゲノムとエピゲノムの両者の情報がそろわない限りわからないということになる。それが今回の探索のトリックというわけか。


 やっぱりこのゲームのシナリオは難易度がバグってる。理解するためには今聞いたような高度で複雑な、おそらくそれでも大幅に端折っている、知識が必要だということだ。解けるわけないだろ。


『これでここのスコアの意味が分かった。本選の優勝者のIDは……』


 ルルがスコアを表示した。三つのIDが特に高い数字を持つことが分かった。そしてその中でも一番高いIDがヒトの名前に翻訳される。


『古城舞奈のIDだね』


 沙耶香が「っ!!」と叫び声を抑える。俺も息をのんだ。探索の成功は最悪の情報しらせだ。極めて深刻な危険。だがそれに勝るとも劣らない危険が近づいてきていた。


 モデルがエレベータに向かうのが分かった。この部屋を囲むようにドローンが移動し始めている。さっきまでは外側を周回していた輪が小さくなっていく。侵入者に気が付いたとしか思えない布陣の変化だ。しかも、これまで全く反応を示していなかったDP光が頭上に出現した。


『敵のDPCからダイレクトにつながったドローンだ。監視室の真上、屋上の排気施設に隠れていた。大きさから言って主力だろうね。まずいね他のドローンがこの二つを中心に組織化され始めている』


 蜘蛛の巣の中で主に気づかれた状態。一刻の猶予もない。少しでも早く脱出する必要がある。だが俺の足は糸に絡みつかれたように動かない。ルルが表示する立体地図の中の二つのライン。想定していた退路AとBがそれぞれモデルと大ドローンによって潰されている。

 周囲から近づいてくるモノアイの群れが自分を網にかかった蛾であるように感じさせる。当たり前だ、気づきさえすればここは敵の巣だ。侵入者が選びそうな逃走経路なんて、簡単に予想できる。

 すなわち絶体絶命。

(…………絶体絶命? つまり、今の自分が認識していない方法で逃げるしかないということだな)

 一瞬で脳のモードを変えた。現在の俺の認識が間違っている未来世界を描き出す。この世界は複雑だ。絶体絶命などという分かりやすいケースは存外ない。大抵の場合は眼が塞がっていただけ。いや、見えているはずなのに見えていないだけだ。

 今この状況で俺よりもずっと見えているのが我が敵だ。八須長司、こいつの防衛行動から、こいつが見ているものを予測ロールプレイしろ。そしたらわかるはずだ、こいつが一番してほしくない俺の行動が……。


 脳の奥からがなり立てる恐怖を無視して、状況をさっきとは違う角度で認識しなおす。俺ではなくモデルが今この状況をどう見ているか、どう感じているかをロールする。

 俺の利点はDPCを持たないことだ。相手は存在しないDPCに最大の警戒を割きつつ、通常のセンサーも追うしかない。そうなると、敵が一番通って欲しくないのは……。

(プランCだ。最初に絶対にここだけは選ばないと決めたルートを行く。つまり、こいつの本来の根城を突っ切って外に出る)

『了解。大ドローンの制御の為自律モードに切り替えた小物ドローンの一つを掌握する。そいつにセンサー情報を混乱させよう』


 ルルが瞬時に意図を読み取った。ドローンの一つが動きを変える。それに複数のドローンが引きずられる。通路が開いた。俺は脱出経路の窓に向かって走る。モデルと大型ドローンが同調するように動く。やっぱりな、いざという時は制御室ほんまるを守るためのプランが用意されていた。


 敵のコードレッドを引き出し、その横を通り抜ける。


 勝負の十字路。モデルと大ドローンが左右に分かれる、あるいは両方とも右に行けば詰み。左なら脱出路が開かれる。確率は四分の一。ソナーのモデルが左に向かった。確率二分の一。大ドローンはモーター音を響かせて左に曲がった。俺は空いた通路を全力で駆ける。


 ルルのドローンが破壊される音が聞こえた。目の前には、人の頭一つしか入りそうにない窓だ。サイズからしてドローンからの受け渡し用だ。狐のマークが浮かび、窓が勝手に開く。


 読み勝った。


 そう思った瞬間だった、向かいの壁が四角く光る。ドアが倒れ、円筒形の機械が飛び出してきた。二つの目を持ったドローンの眉間に第三の目が開く。


 移動中の【ソナー】がぼやけていても高出力と分かる赤い光を見せつけられる。上野公園、弁天堂で見た光景だ。大きいといっても人間の背の高さもないドローンに搭載できるはずのない量の電力が集中する。レーザーサイトが俺の眉間に照準を合わせる。


 だが、それが右肩へ移動した。それが生死を分けた。横から飛び込んできたドローンは、壊れたものの代わりにルルが新しく調達した機体。レーザーはその飛行ドローンに命中した。


 破片が飛び散る中、俺は外に光る飛行ドローンのDPを頼りに外壁に脱出する。


 両手で三階の外壁に張り付く。重力と接着力を調節し、壁面を滑るように斜めに下る。二階の非常階段出口の屋根に落下した。衝撃を打ち消してそのままバリアを発動。窓から飛び出てきた飛行ドローンのレーダーをフラッシュで目くらまし。そのまま一階へ階段を全速力で降りる。


 Xomeの敷地を出てあらかじめ決めておいた経路に向かう。近くの公園から建物を覗う。モデルは結局最後まで建物を出なかった。息を整えながら、ルルからIDを消去したという報告を聞いた。上空を舞っていたドローンが突然乱れる。墨芳徹が存在しない人間になったのだ。


 僕はゆっくりと公園を出た。脱出シナリオ成功。だが根本的な問題は解決していない。事態はまだ最悪の中にある。


(セーフハウスから例の部屋にアクセスする。今後のことを話し合おう)


 二人にそう告げて道を歩く。街燈の光で作業着の袖が焦げていることに気が付いたのはその時だった。

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