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第8話 盗撮

「ごめん沙耶香。ちょっと席を外したい」

「…………えっ、あっ、はい。わかりました」


 僕は恋人役にそう言って通路を指さした。スタジアムの外周に向かう通路の先にはトイレのマークがある。友人の無事に胸をなでおろしていた高峰沙耶香は一瞬きょとんとしたが、好ましからざる予定を思い出したらしく深刻な顔で頷いた。そして席を立とうとしない僕を不思議そうに見た。


「手を放してくれないと動けないんだけど」

「あっ。ご、ごめんなさい」


 慌てて僕の手を解放する彼女。申し訳なさそうにさっきまで僕の手に被さっていた掌を見る。文字通り手に汗握る試合、いや手に汗を握りあっていたというわけだ。こんな美人に汗がにじむほど手を握られるなんてむしろご褒美……。いや、知人と友人の試合を見に来たカップルのロールプレイとしては適切というべきだな。


 高峰沙耶香に小さく手を振って通路に出た僕は上に上がりながら手の甲についた爪痕から意識を戻す。ここからのロールプレイは恋人ごっことは一味違うのだ。


 会場外周にあるトイレについた僕は個室に入った。Deeplayerの死角であることを確認してテックグラスに現れた紫のアイコンを視線でタップする。


 ―Cogito ergo sum―


 キャラクターシートが立ち上がる。テックグラスに表示されるIDが『黒崎亨』に、チケットIDが取材許可のIDに置き換わった。リバーシブルの上着を裏返し、裏ポケットから伊達眼鏡を取り出す。入り口近くの手洗い場で、自分の年齢がプラス三年されていることを確認してトイレを出た。


 IDリングで関係者以外立ち入り禁止の運営区画に入った。これで白野康之プレイヤーはトイレ、黒崎亨キャラクターは運営区画、二人の人物が別々に存在しているとコグニトームに認識される。


『試合の最後、ポッドにDeeplayerからの干渉を確認した。これは当たりだよ』

(同期エラーは意図的に仕組まれたわけだな。古城舞奈はどうなっている?)

『控室から医務室に移動した』

(わかった。古城選手に何が起こるのか取材するとしよう)


 頭の中に聞こえる声の主には言いたいことは色々ある。だが、今の俺は私情を押さえやるべきことを着実にこなす密偵プロフェッショナルだ。


 運営区画を迷わず進む。進路はすべて表示されるし、近づいてくる人間は壁の向こうからIDがテックグラスに現れる。俺は選手控室に続く明るく新しい通路から人気のない物品搬送用の通路に入った。コンクリートの打ちっぱなしの壁に並ぶドアの一つに入った。


 物置部屋だ。パイプ椅子や段ボールが並ぶ暗い空間を歩き、灰色の壁の前に立つ。壁の向こうに二つのIDが浮かんでいるのを確認する。一つが古城舞奈、もう一つはこの競技場の医療スタッフのものだとわかる。


 キャラクターシートからスキルを一つ選択して、発動する。


【メディウム・マキヌス】


 ニューロトリオンは通常の物質とはほとんど相互作用しないので電波を遮断する鉄筋コンクリートの壁すら簡単に透過する。例外は同じくニューロトリオンを発生している人間の脳だ。それを頼りに目標の座標をとらえる。即座に壁の向こうの映像が脳裏に流れ込む。


 壁の向こうにあるカメラの映像だ。ルルがコグニトーム上に送り込んだボットをニューロトリオンを使って操作、その情報をショートカットして脳に直接届ける。カメラに限らずあらゆるセンサーに活用できる便利な代物だが、脳の外ではすぐさま崩壊するニューロトリオンの性質による範囲に制約があり、Deeplayerの監視下にある機器には使えない。


 視覚野に流れ込んできた映像は、まるで目で直接見たように鮮やかだった。おかげで俺は反射的にのけぞりそうになった。小麦色のしなやかな素足がこちらに突き出されたように見えたのだ。


 古城舞奈の挑発的な格好が眼前にあった。陸上選手のセパレートウェアのような格好で、試合用のユニフォームよりもずっと露出度が高い。


 褐色の肌から付け根付近だけが白いのがなまめかしい。医師、それも同性に対して完全に無防備になっているJKの姿はかなりの背徳感がある。まるで盗撮、それも恋人の友人に対するという最低のやつだ。


 首を振る。今の俺は黒崎亨だ。密偵である俺が小娘の半裸程度で動揺するはずがない。


(何か怪しいところは?)

『今のところなし。立体型のソナーを使った通常の骨と腱の検査だ』


 「大丈夫ね」と女医がいい、舞奈がそうでしょうと返している。女医の情報がルルから流れ込む。通常の経歴でシンジケートとのつながりはない。通常の医療行為ならこれ以上見ている必要はないか、そう判断しようとした時だった。


 女医が「最初の試合だからついでに念のためね」といってシリンダーを取り出した。そしてそれを舞奈の足に押し付けた。視認してそこだけ切り取り通信で送る。


『光センサーで血管を認識し、ボタン一つで真空カートリッジに少量の血液を採取する機器です』


 沙耶香の声が聞こえてきた。俺が今何を見ているのか彼女が知らないのは幸いというべきだ。


(こいつはどうなんだ、ルル)

『選手の体調やドーピングなんかのチェックのためにそういう規定はあるけど、プレデビュー戦でというのは珍しいね』


 画面上では舞奈がシリンダーを押し付けられた場所を確認している。赤い点のような小さな出血だけ。セパレートのアンダーが悩ましい方向によれた。舞奈はその場でピョンピョンと二回飛び跳ねると、女医に礼を言って医務室を出た。


 対象が消えたことで視界が壁によって塞がれる。同時に、廊下をスタッフらしき男が二人、話しながらこちらに来るのが分かる。


(検査の担当がシンジケートと直接のつながりがないなら、問題はサンプルがどこへ行くかだ)

『大丈夫、サンプルのIDはマークしているよ』


 急いで倉庫を出る。向かいの角ですれ違ったスタッフの二人は俺をちらっと見るが、話をつづけながら搬送口の方に行った。


 もう少しでトイレにもどるという所で、足早に歩いてきた背広の男性とぶつかりそうになった。角の向こうにIDが表示されてなかったのだ。男性は四十代。細身だが筋肉質。精悍な顔立ち。鬢の毛にわずかに白いものが混じってなければ選手かと思うほどだ。


「スタッフの人かな。選手控室はどこだろうか」


 テックグラスに遅れて現れた紫色の名前に、俺は引きつりそうになる表情を抑え「あちらの角を右です」と答えた。娘の半裸を透視していた不届きものとは知らない男は、一言礼を言って真っすぐと医務室の方に歩いて行った。


 トイレで元に戻った僕は、丁度二試合目が終わり盛り上がっている会場を歩き、席に着いた。思わず額の汗をぬぐった。


「どうしました。顔色が」

「大丈夫だよ。それよりも、メインの試合に間に合ってよかった」


 会場には二人の選手が紹介されている。客席も九割がた埋まっている。この試合の勝者がタイトルホルダーへの挑戦権を得る大一番だ。今ここに座っている僕は彼女のおかげでプラチナチケットのおこぼれをいただいた平凡な大学生。


 メインイベントは流石に盛り上がったが、僕はルルからの連絡が途絶えていることが気になって集中できなかった。



「初勝利おめでとうございます。古城さん」

「プレデビューだけどね。練習試合みたいなものだよ。でもありがとう、見に来てくれて」


 試合後、会場の外で待ち合わせた古城舞奈は友人の言葉にまんざらでもないように笑った。ちなみに彼女の今の格好は目に優しいジャージ姿だ。


「練習試合っていうには大きな会場だった」

「実は、あっちの事務所が私を指名したらしいですよ。もしかして私に袖にされてよほどプライドが、とか」

「ははっ、おかげで僕もいいものを見せてもらったよ。ああ、もちろん試合のことだよ」


 意味ありげな視線を僕に向ける古城舞奈に、言わずもがなのことを言いそうになる。古城舞奈は何を当たり前のことを言ってるのかという顔になった。大丈夫、僕は何も見ていない。


「技術的にも色々と新鮮でした。体の動きをラグなしでバーチャル空間に反映させる技術とか、そのためのセンサーの配置とか」

「それは良かったけど。もしかして高峰さん試合中もそんな話ばっかりしてたんじゃないよね。こういう時は、怖がった振りをして彼の手を握るとかがポイント高いんだよ」

「…………」「…………」

「あれ? もしかして余計な忠告だったりしたのかな」


 思わず互いを見た僕と高峰沙耶香に古城舞奈はニヤリとした。勘のいいJKの追及にどう対応しようか焦るが、古城舞奈は突然耳に手をやると、眼を二回瞬かせた。


「ごめん親父からの催促だ。何でもないってお医者さんに言われたって言ったのに。まあ、いっても私の試合をだしにデートの二人は本番はこれからだし邪魔もできないよね。お邪魔虫はそろそろ引き上げますか」


 古城舞奈は最後まで笑えない冗談で、僕たちをからかうと立ち去った。


 この試合観戦は確かに口実だ。そして、僕たちに待ち受けているのはルルの調査結果だ。その結果次第では今去った彼女の運命も左右する。





 三十分後、僕と高峰沙耶香はスタジアムの近くのホテルの一室にいた。格闘技で盛り上がった男女がベッドの上で一戦交えようかというシチュエーションだが、もちろんそんな普通の展開はTRPGには無縁だ。


 僕たちの意識はホテルではなく、十八世紀末のロンドン、シャーロックホームズが活躍した時代のオペラハウスの一室にいる。恋人同士の逢瀬ではなく、次の脚本シナリオについて話し合う雰囲気たっぷりの空間だ。


「採取された古城舞奈の血液サンプルがどこに送られているのかを突き止めた。逆算して同じように送られているVA選手のサンプルの経路の異常もわかったよ」


 ルルの言葉と共に、テーブルの上に表示された地図上に無数の痕跡が現れる。その痕跡が地図上の一点に集まっていく。そこには道路に対して凸型の建物があった。


Xomeエックス オーム社の生体情報分析センターだ。主要業務は医療機関からの検査サンプルの分析。これがその施設の概要だ」

「網羅的な生体情報の分析、いわゆる情報工場データ・ファクトリーですね」

「さすがサヤカは話が早い」

「悪いけど、スピードを落としてくれ。医療行為として採血された血液が検査施設に送られただけにしか聞こえない」

「つまり、古城さんをはじめとした若手のVA選手の血液サンプルは医療検査という業務内容を遥かに超える設備を持った施設に送られたということです」

『しかも、サンプルのデータは通常の医療検査の部分以外にXomeを出た形跡がないんだ』


 二人が言った内容が頭の中で総合されて僕に結論を突き付ける。


「秘密の通信手段を持つシンジケートが情報を秘匿する必要がある相手は他のシンジケートだけか」


 探索は大成功、そして潜入シナリオへの道が無事開いたというわけだ。これがTRPGなら大成功だ。

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