第1話 モラトリアム
「令和初期、GDPの10倍を超えていた政府債務は現在は一倍以下にまで減少。これに伴い20パーセントに達していた消費税は廃止されました。これが十五年前から始まった経済の大革新の成果です」
円形の講義室、その最後列の端からも見える、右肩上がりの景気の良いグラフが瞳の中に滲む。
「この改革は大きく分けて二つです。一つは金融の完全電子化により効率性と透明性を伴った経済活動および税制が成立したこと」
講義室の中央に浮かぶホログラムの地球義。その球面を流れる金貨の川。そこから僕の網膜に飛び散ってくる、ギラギラの飛沫が煩わしい。
「もう一つは経済の主役が特許権や著作権など知的財産に移ったことです。現在、知的財産の創造とその取引から生まれる富は、モノやサービスのそれをはるかに凌駕するに至っています。これが『創造経済』です」
右耳から左耳に抜ける講義を欠伸でかみ殺した。
脳は自分には関係ない情報には冷淡だ。今のように半轍明けで午後一の講義に臨んでいるのであればなおさらだ。そして脳は働き者だ。頭の中には自分が関心を持つ情報が常に入れ替わり立ち代わりしながら、浮かび上がる。
昨夜のセッションは楽しかった。まさかあそこであのプレイヤーが裏切るとは。予想外の展開こそがあの『ゲーム』のだいご味だ。次のセッションが楽しみで仕方がない。とはいえ、プレイヤーは僕だけになってしまった。GMはシナリオの調整が大変だろう。
共有スケジュールには『夕方から開始』とあるけど、本当に大丈夫だろうか……。
「この『創造経済』の基盤が『全球承認網』であることは皆さんもご存知でしょう。今や人間を含めありとあらゆるモノや情報にIDが付与され、それらの関係がデータベース化されています」
今日のスケジュールを確認するために、僕が目を閉じようとした時だった。講師の横のホログラムが一変した。円形に埋め立てられた湾の中央に、天を突くタワーがそびえ立つ映像が現れたのだ。午後の日差しを受ける海面に、豆粒のような巨大タンカーが行きかっているのを見るに、リアルタイムの映像だろう。
東京湾から突き出すタワーは世界経済の十二の中核の一つだ。湾の深部で発見されたマグマだまりの地熱を中央に通す最先端の地熱蒸気機関と、その周囲を囲む百層を超える巨大データセンター。そこには日本の人口を超える数の演算装置が二十四時間休むことなく働く。
圧倒的な“同期された計算能力”が世界中を飛び交うIDを管理している。同規格のデータベースが相互監視することで、改竄不可能な各種IDのネットワークの記録を実現する。
例えば誰が発明したどの特許がどんな企業に利用され、商品としてどれだけの利益を得たか。それらの関係と、そこから発生するお金のやり取りが自動的に処理される。
発生する税収は直接だけで国家予算の10パーセント。間接を合わせると70パーセントに達する。僕が幼稚園の頃は『インターネット』と呼ばれたものが、バージョンアップした存在だ。
「コグニトーム誕生時は「人工知能の爆発的進歩が人類を滅ぼす」というフェイクが最高潮に達した時期でした。ですが皮肉にも同じ時期に『A.I.の質的限界』が明らかになりました。どれだけ大量のデータをどれだけ高速で処理しても、我々人類が持つ『真の知性』は生まれなかったのです。この原因については現在も諸説ありますが、人間の脳が『意識』を生み出すメカニズムに関係すると、多くの専門家が考えています」
講師はそこまで言うと、僕たち学生をぐるりと見渡した。
「これはすなわち、創造経済の担い手がSEAMと呼ばれる高度人材であることを意味します」
『SEAM』とは四つの職業分野の略称だ。『SEA』は科学者、技術者、創作者。科学理論の発見、工学の発明、魅力的な絵、音楽、文章の創作。人間にしかできない創造的な仕事をする才能を持つ個人を意味する。
最後の『M』はそういった特別な才能を持つ人間を組み合わせたチームの運営者だ。
コグニトームを通じて100億人市場から収入を獲得する。創造経済を支えるエリートの総称がSEAMだ。コンピュータが人間の才能を助けるデジタルユートピア。文字通り“人類の輝かしい勝利”というわけだ。
ただし、突出した才能がコグニトームにより圧倒的な生産性を獲得するということは、優れた程度の才能が追い出されることでもある。人類の勝利は必然的に才能超格差社会だ。
SEAMは合計しても人口の1パーセントを超えない。超エリートの世界だ。特にSEAは天才の中の天才か、必死に努力する普通の天才の世界と言われる。
当然入れ替わりは激しい。流行の変化が激しいアーティスト系は特にきついという。「毎日同じことをするなんて地獄と思っていた。けど、毎日新しいことをするのはもっと地獄だった」という遺書を残した有名イラストレーターの自殺をニュースで見たのは、高校二年だったか。原因はコグニトーム上の自分のスコアの低下と、それに伴う仕事の減少だったようだ。
大好きな『ルールブック』の表紙を描いた人だったのでショックだったが、同時に彼の感覚が理解できなかったのも事実だった。仮に今後一切仕事が無くなっても、過去の資産《IP》から人並み以上の収入が約束されていたのではないか。そう思うのは僕が選ばれし才能ではない何よりの証拠だろう。
管理者《M》は昔はホワイトカラーと呼ばれていた仕事が近く、もう少し間口が広い。ただし、コグニトームにより多くの事務作業が自動化された為、その数は激減した。昔の基準ならエグゼクティブクラスとコンサルタントしか残らなかった。
当然、SEAとは別種の激烈な競争がある。数少ない席に着くだけで大仕事。その後は激しい出世競争だ。そして、そのM人材がここにいる学生の目標である。
ここは総合教養大学。突出した才能はなくとも、あらゆる教科で平均的に高い得点を取る人間が集まる。将来の管理者候補を育てる場なのだ。管理者は、SEAという複数の異なる分野の才能を統括する能力が求められる。
その為に必要なのが“広く豊かな教養”というわけだ。
もちろん建前だ。現実は管理者こそ短期的で明確な成果を求められる。プロジェクトごとに、どれだけのリソースを使ってどれだけの成果を生み出したかを問われる。
実際に周りの学生たちも、やれインターンだとか人脈作りだとかで忙しい。大学の中心に立つ起業支援センターはいつも大勢の学生でにぎわっている。一方、隣の総合図書館はガラガラというありさまだ。
入学から半年間、そんな中に身を置いていれば、どうしても自分の資質が見えてくる。
僕には突出した才能がないのはもちろん、これだけは極めたいと情熱を傾けることが出来る一つの分野もない。歴史から科学まで、取っ散らかった興味がぐるぐる走り回る、落ち着きのない頭だ。
おかげで知識を自分の中に取り込むのに時間がかかる。何しろ一つを知るたびに、それまでに得た知識との関連を付けたがる。
一度覚えたことはそうそう忘れないんだが。肝心の速効性に欠けるということ。
かといって、人を率いたり調整したりするのも苦手な部類だ。ましてや人を踏み台にしたり、出し抜いたりしてまで高い地位や収入を得たいという野心も持ち合わせていない。
むしろこの創造経済が、経済学的な分業の行きついた先の残骸の集まりに見えることがある。どこか薄っぺらく、断片的に感じるのだ。『世界』を、あるいは自分自身を、そういったよくわからない一つのものを、本当に体現できているのだろうか?
主体性、自己実現、マネージメントを目指す同級生たちがよく口にする言葉だけど、彼らを主体だと感じないのはどうしてだろうか。
人間にしか出来ない創造的な仕事。それがスコアという共通単位で短期的に測定される。その時点で、実は代替可能な部品であるのではないか?
誰も世界を、ひいてはその中に生きる自分を、見る暇すらないんじゃないか?
いや、これは負け惜しみというやつだろう。僕は単にSEAMの適性がない凡人、そしておそらくエゴイストに違いないのだ。
要するに僕は99パーセント側が似合っているのだ。医療や最低限の生活など基本社会権利は保証される。それこそSEAMの経済活動からの税金によって。それ以上が欲しければ、コグニトームで公正かつ適切に管理された労働で追加収入が得られる。
せっかく豊かで安定した、それも多彩な娯楽に事欠かない時代に生まれたのだから、趣味第一に生きるというのが我が人生計画だ。エゴイストらしい生き方といえるだろう。
改めて、講師の姿をまぶたでシャットダウンした。テックグラスがオンになり、眼球に張り付いたレンズから暗幕にテキストが現れる。新システムのルールブックの発表、追加資料集の発売など、興味あるニュースが並んでいく。
講義よりもずっと興味を引くタイトルの列。そのどれを読むか目移りしていた時に、新しいアイコンが出現した。手紙の形のそれに狐のマークを認識した途端、僕は全てのニュースを閉じた。
メッセージを読み、グラス上でいつもの手続きを呼び出す。要望はIDリングを通じてタワーに届き、全てを取り計らってくれる。
「本日はここまでです。来週はタワーに設置されている球面半導体について説明します」
講師の言葉を背に、僕は足早に講義室を出た。
自転車のロックをリングで解除。正門から大学を出てサイクリングロードに入る。ゲートの向こうには自動運転《A.I.》車が整然と走る。人間が運転する車を追い出したことで自動運転が達成された。ハンドルが付いている車はレース場か自衛隊基地にしかない。
無人コンビニで講義中に注文した飲食物を受け取る。緑色の桜並木の河川敷を走り抜け、五階建てのマンションに入った。横の階段を急ぎ足で上がり、208号室をリングで開錠。
ユニットバストイレとキッチンに挟まれた奥に六畳半の洋室が現れる。
靴を脱ぎ棄て、まな板にサンドイッチを載せる。缶コーヒーだけを手にリビングに入った。ベッドに上着とカバンを放り投げ、部屋の一角を占拠するブースデスクに座った。
ヘッドホンとマイク付きのバイザーをかぶる。外光が無くなり、バイザーからの無線給電がオンになる。拡張現実《AR》モードから仮想現実《VR》モードに移行した。
僕の仮想実体がワイヤーフレームの世界に現れる。目の前に表示されたドアを相対座標モードで通過する。VRを絶対座標で移動したら無警戒で現実にぶつかる。仮想空間の没入感はそれくらいリアルだ。
個人IDにより開錠されたゲートをくぐる。明るい灰色の壁に囲まれた無機質な会議室《VRルーム》。その中央には一つのテーブルだけが存在している。
僕が椅子ごとテーブルについたと同時に、向かいに小柄な少女が出現した。
ふわっと弾むように椅子に降り立った少女は、狐面をかぶった金髪の姿だ。
「今日が最後のセッション。そして君が最後のプレイヤーだ、ぜひともクリアまで付き合ってほしい」
「全力を尽くすよGM。もっとも最後はダイスの女神さま次第だけどな」
『キャラクターシート』を目の前に呼び出し、手探りでコーヒーのスクリューキャップを引く。焦げた香りが口の中に充満するのを合図に、架空の自分を頭の中に思い浮かべる。
息をのむような美しいオープンワールドで展開されるMMORPG。プロを頂点に多くの人間が競い合うFPS。現実と遜色ない、いやそれ以上の体験が仮想世界にはいくらでも存在する。
でも、僕はVRRPGの適度に調整された冒険にも、e-sportタイトルのような人間同士の競争もしっくりこなかった。お気に入りはもっとずっと地味でアナログチックなゲームだ。
それはコンピュータゲームすら存在していない時代に、ボードゲームから派生し誕生し、現在のVRゲームでも最大ジャンルであるRPGの原型となった。
『ルールブック』を元に人間と人間の想像力が作り上げる『究極のごっこ遊び』。テーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム、略してTRPGだ。
すべてが想像の中だからこそ、そこに存在する僕の偽物は本物。その倒錯した没入感が、僕は大好きだ。