聖典派
「もうひとつ……」
呟くエリザベートの右肩をガシっとつかみ、シュレーゲルは嗚咽すら漏らしながら言葉を振り絞った。
「やめてくれ! もう……やめてくれ! やめてやってくれ!」
その声にエリザベートはハッとして、短く、鋭く詰問した。
「貴様の仲間か!」
思い起こしてみれば、怪しいことばかりだ。
ナイトの奥に入ってから、やたら時間がかかったのも変だ。
しかし、仲間が集まってくるまでの時間稼ぎというなら、辻褄は合う。
計算違いがあったとすれば、シュレーゲルは本来ならハッチを塞ぐように立って、エリザベートが戻るのを阻止すべきだったのに、それを怠ったこと。
もっとも。そんなマネをすれば即座に両断するから、稼げたとしても数秒がいいところだったろうが。
あるいは、初対面の時に見せた剣速に、無駄を悟ってひるんだか。
「ちがう……。
仲間でもないし、会ったことすらない。
どこの村の者かも知らない。
けど……連中も人間なんだ。生きているんだ。
殺さないでやってくれ。もう見逃してやってくれ……」
「連中が犬猫でなく人間なのは、私にもわかるぞ。
犬は家や蔵の番もするし、狩りにも使える。
猫はネズミを捕るし、何より可愛い。
なにより犬猫は、私に石をぶつけたりしない!」
「それなら……連中は村に戻ったら、二度と騎士様に刃向かおうとしないだろう。
姫様の目論み通り、連中だけでなく、村の者全員が」
「むぅ…………」
エリザベートはモニターの光点に目をやった。
残りは5つ。
予定は達している。
先ほど振るった剣のとばっちりを受けて道化に化けたヤツも、少なくとも今はまだ死んではいない。
時間の問題だとは思うが。
「繰り返しになるが、貴様は連中の仲間ではないのだな?
『仲間だった』と自白したとしても、私は貴様を害しない。
無傷でナイトから降ろしてやると誓おう」
目つきも口調も鋭く詰問するエリザベートに圧せられつつも、
「なにを期待しているのかは知らないが、全くの無関係だ。
初対面どころか村も知らない。
ただ……人間なんだ」
と、シュレーゲルはようやく応えた。
「ふー」
エリザベートは、長い息を吐いた。
「ところでいつまで肩をつかんでいるつもりだ。
貴様たちの風習は知らないが、騎士にとっては不敬だぞ!
それに……少し痛い」
「あっ!
すみません。つい!」
シュレーゲルはあわてて手を離した。
エリザベートの肩は、彼がイメージしていた以上に小さく薄く、固かった。
連中。野盗か落ち武者狩りかも知らないが、遺骸は放置することにした。
最初シュレーゲルは「埋めてやりたい」と言ったが、地面に下ろされた瞬間、跪いて激しく嘔吐した。
もわんとした、圧力と重みを持った死臭と糞尿の匂いが立ちこめている。
遺骸にしても、鉱山の落盤事故で岩に潰された方が、まだマシだった。
ほとんどが挽肉のように潰れ、頭が頭の形を保っている方がまれだ。
手足の破片は広く四散し、その範囲一帯の草が朱に染まっている。
騎士や貴族は庶民の命など、犬猫ほどの重さも感じていない。
騎士や貴族にとって、自分に刃向かう庶民など、害虫以下だ。
よく言われてきたことだ。
だが、シュレーゲルは、そこには誇張があると思っていた。
少なくとも身体は同じ人間だ。
会話もできるし、家に帰れば親や妻子もいる。
しかしエリザベートは、シュレーゲルの幻想を微塵に打ち砕いた。
はたして彼女は、自分を人間として見てくれるだろうか?
接してくれるだろうか?
これから街まで何日かかるか……馬車なら3日とシュレーゲルにもわかるが、ナイトの速さはわからない。
人の命を枯れ葉ほどにも感じない相手と、一日二日を共にする緊張に耐えられるのか?
思案したシュレーゲルは、カマをかけてみた。
「姫様。お互いに名前を名乗り合ったというのに、『姫様』『貴様』としか呼び合ってないような」
「それで不都合がないのだから、かまわないだろう」
「そりゃそうですが、他人行儀というか……」
「他人であろう」
エリザベートはぴしゃりと言い切った。
シュレーゲルは、内心ほくそ笑んだ。
エリザベートの口調は、冷たく素っ気なく聞こえるが、少なくとも「他人」、つまり「人」として見てくれている。
ただ……騎士にとって「人」が犬猫より上位にいるかはわからない。
おそらく馬には劣るだろう。
ならば、彼女の中のランクを上げていけばいい。
「人」のランクを上げるという大それた野望を持とうとも思わないが、人の中でも「自分」のランクを上げる。
「賢者」を自称しながら、実際は流れの吟遊詩人と大差ないシュレーゲルだ。
相手を喜ばせ、油断を誘って相手の心に入り込み、別れ際には涙や餞別を誘う。
その処世術は心得ている。
それに何より、その過程で交わされるだろう会話はシュレーゲルが望んでも得られなかった、知的好奇心をくすぐるものだろう。
そう。
人は、相手が知らないことを指摘し説明するだけで、知らず優越感に浸れる。
相手の物言いにもよるが、知らなかったことを知れれば、知的好奇心がくすぐられる。
いずれにしても、相手と相手の話に興味を持ち、楽しみに思えてくる。
貴族や騎士にとっては、土にまみれた庶民。
いや、その土地すら持たない流浪のシュレーゲルの「日常」は、聞きよう話しようによっては、ちょっとした冒険譚にも聞こえるだろう。
シュレーゲル自身がそうであるように、知的好奇心が満たされることは、パンで胃袋が満たされるのに似た快感となり得る。
「俺はラインヘッセン国のマインツ市で生まれた。
小さい頃から教会に通い、十一歳で『聖典』も読めるようになって、神童とまで呼ばれたんだ」
ただな。成長して知恵がついてくると、聖典と現実のずれに気がついてきて……。
それで、生の声を聞こうと教会を飛び出して、あちこち旅をするようになった」
シュレーゲルの一人語りを、エリザベートは黙って聞いている。
ただ、聞き流しているのでも、興味がないのでもないようだ。
エリザベートも、末端の騎士とは言え、貴族の序列に名を連ねる。
「聖典」や「教会」……今この世界の戦争は、かつてのように単純な領地の奪い合いではなく、「聖典派」と「教会派」に別れての宗教戦争に近い。
聖典を読み、聖典に違和感を覚え、それで教会を飛び出したシュレーゲルの話に興味を持つなと言う方が無理だ。
エリザベートがどちらの派閥に属するのかシュレーゲルは知る由もないが、シュレーゲルの話を遮ってくれば、それがわかる。
シュレーゲルの「自分語り」は、自分語りに見せかけた「誘い水」だ。
クイ。
エリザベートが顎をあげて、話を促す。
「あぁ……。そうして旅をしているうち、僻地の村や集落に、聖典にはない『神話』がいくつもあることに気がついた。
もちろん、鄙びた地方に土着の神話があることは珍しくもないが、北のウレンシュトルートと東のザクセン、南のバーデンに同じ話が残っているとなったら、聖典よりも古い話があって、なぜか聖典に収録されなかったと考えるべきだろう。
それを集めて整理して、聖典の『原型』にたどり着こうというのが、俺の夢だ。
ま。夢半ばで俺の命は尽きるだろうし、弟子を取ろうにも、俺みたいな貧乏人についてくるやつなんていないがな」
「神話研究家と自称していたが、本当に研究家だったのだな」
エリザベートが呟いた。
吟遊詩人や道化が聖典を揶揄やアレンジして、面白おかしく語るのに、「聖典」と言ってしまえば、場合によっては命を失う。
そこで、彼らは「神話」を標榜して芸を行う。
シュレーゲルもその類いだとエリザベートは思っていたが、どうやら本人はいたって真面目な「神話研究者」らしい。
話は前後するが、「聖典」は大昔に記された古代の記録で、星の海を渡る船などの荒唐無稽な話から、道徳や倫理などが書かれている。
もっとも、大昔の書物だけに古代文字で書かれていて、教会で専門教育を受けた者以外は読めない。
教会は古代文字を独占し、聖典にある古代の英知を独占することによって、自らの権威と権力を高めてきた。
ナイトなどは古代の英知の塊だし、修理工具も工法も、古代の文献が読めないと調べられないのだから。
もちろん、熟練の職人に弟子入りし、文字は読めなくても技量を極めることはできるが、技術の新発見はできない。
何十年も努力と研鑽を続けてたどり着いたものが、聖典にさらりと書いてあったりするのだから、モチベーションが保てない。
呟いたエリザベートだが、それからは無言で、表情に変化もない。
……ヤバい橋を渡るか。
「二百年前だったか。教会の中から、教会を否定する司祭が出てきたんだったよな」
「教会を否定したんじゃないぞ。
布教に熱心なあまり、聖典を読みやすい現代語に訳しただけだ」
すかさずエリザベートが修正を入れる。
かかった!
エリザベートの言うとおり、その司祭は聖典を古代文字から現代語に訳しただけだ。
文字も音も文法もわかりやすい「翻訳版」は一気に広がり、司祭の目論み通り、信者は大幅に増えた。
ただ……司祭もやはりエリート「信仰の徒」であり、下世話な一般人の気持ちには気がつかなかったのだろう。
「教会に行って、そのたび多額のお布施をしなくても、自分で聖典が読めれば、その金で贅沢ができる」
かくして、信者は大きく増えたが、教会の収入は逆に激減した。
その司祭は、教会から除名され、逆に……のちに「聖典派」と呼ばれる一派からは、「聖人」とあがめられた。
実は、「ルターの宗教改革」って、ドイツ語の「聖書」を書いちゃった……だけなんです。
それがベストセラー(?)になって、気を良くしたルターは「免罪符の不条理」などエスカレートしますが、もともとは「翻訳」です。
でもって……ぶっちゃけ、カトリックとプロテスタントに分裂して、お互いに憎み合って、お互いに殺し合うようになっちゃいました。
まー。宗教改革や宗教戦争なんて、ラノベ(?)じゃフツーは扱いませんが、この作品ではむしろ「本線」ですので、お付き合いください。