かに座のオルディネ
タバコを燻らす男は、土足で道場内に入って来た。
流の眉がピクリと反応した。
だが、それだけだった。
普段の彼女であれば、容赦なく急所を狙った攻撃を笑顔で繰り出してくるが、彼女の表情は強張っていた。
流だけではなく、竜の表情も引き攣っている。
男の纏う空気…否、殺気が二人の肌に容赦なく突き刺さる。
動けない。
男は、床にタバコを投げ捨て、火種を踏み消した。
サングラスの奥の目が、二人を睨みつけるのが、更に膨れ上がった殺気で解った。
「なまっちょろい事言いやがるね、当代の“獅子の王”は。」
「てめ…誰だ…?」
竜の喉がいやに渇き、張り付く為掠れた声しか出ない。
しかし、男は感心したように声を上げた。
「へー、オレの気に当てられながら喋れんだ?さすが、ってトコか?んじゃ、特別に教えてやるよ。オレの名は、山王日和。巨蟹宮の闇の主、“蟹座騎士”。宜しくねん。」
凶悪な笑み。
人を傷付ける事に愉悦を見出した者の目だ。
自分達の手には負えないと直感で感じ取る。
一歩一歩近付いてくる日和。
竜と流は、無意識の内に下がってしまう。
不意に、男の姿が消えた。
―――ドッ!
「っぐ!?」
左脇腹に思い衝撃を受け、壁へと吹っ飛んだ。
激しい衝撃に壁が崩れ、亀裂が走る。
「んー、まだ駄目か。」
竜が立っていた場所には、日和が腕を組んで首を傾げていた。
その表情は不満そうに歪んでいる。
日和の手加減して尚強烈な中段蹴りが、竜を襲ったのだ。
あまりの早業に、竜も流も目が追いつかなかった。
(勝てない…。)
流は、絶望を感じていた。
「あ、貴方の相手は、あたしたちじゃないわよ?」
声が震える。
流の言葉に、日和はにっこりと無邪気に笑った。
「確かに、同じ星座でなければ、“殺し合い”は出来ないけど。」
一度そこで言葉を切り、ガッと流の細い首を捉えた。
「“傷付け合う”事は出来るさ。」
日和は、流を竜が蹲る壁に、力一杯投げ付けた。
竜がぶつかった以上の破壊音が響く。
「っ、ながれ!」
言葉を紡いだ瞬間、咥内を血液が満たした。
激しく噎せながら血液を吐き出す。
ガラ…と破壊された壁から、流が出て来た。
衣服は汚れ、口の端が切れていたが、それだけの軽傷だった。
流は、口端の血を手の甲で拭いながら、フ…と笑った。
それはあまりに妖艶な笑みだった。
「それもそうね。殺れずとも、伸す事は出来るわ。」
彼女の中のスイッチが切り替わったのか、目が完全に据わっていた。
十七年、幼馴染をしてきた竜も見た事がない凶暴さをその目に秘めていた。
「さすがだな、シグマ。」
愉しそうに述べる日和の周りに、大気中の水が集まりだす。
「そうかしら、アルタルフ。」
鼻で笑う流を中心に、風が螺旋を描き出す。
"シグマ"は流の初代の名。
"アルタルフ"は日和の初代の名だと、瞬時に理解した。
そして思い出す。
この二人は、“星座騎士”の中でも、一番仲が良く、一番仲が悪い友人だった事を。
「“水蜘蛛”」
「“風凛”」
道場が吹き飛ぶのではないかと思う程に、力を使った激しい手合わせに、竜の心が切なさで軋む。
肩甲骨がジリジリと熱くなる。
肩甲骨と言うか、獅子座のマークが燃えるように熱くなりだす。
右手で左肩を掴む。
掴む痛みより、マークの熱さが勝る。
『―――!』
「え…?」
耳の奥…否、頭に直接響く声。
自分の声と似ている声が、悲嘆を込めて叫んでいる。
『…め―――!止めろ…!』
自分の心と同調する声。
「これ…まさか…。」
『頼む…二人とも、止めてくれ…!』
「…レグルス?」
竜の中で必死に叫ぶ声。
自分の初代の魂だと思い至った。
激しい闘争は、止まる事はない。
二人の額からは血が流れ、頬や腕、足などに裂傷が生じている。
マークの熱さのあまり、蹲り、声が出ない。
ズクズクと訴え始めた痛み。
「やめ…」
『止めろ…』
「『っ、止めてくれ!!!!』」
竜が叫んだ途端、強い光が破裂した。
強い光に日和の目が眩む。
その隙を突いて、流の掌底が日和の顎を捉えた。
「くっ!」
日和はバク宙して床に着地すると、スクッと立ち上がった。
「いって…。しゃーねー、今日は帰るか。」
「待て!」
「オレより、坊主の心配してやんな。」
小さく笑ったかと思うと、その場から日和の姿は消えた。
流は、日和の言葉にハッとし、竜の方を見れば、竜は意識を失い床に伏していた。
その真紅の髪は、長く伸び、床に流れていた。