09 王女の日本滞在記(2)
翌朝も昨日と同じように桐島とホテルの部屋を訪れると、そこには見違えるような格好をした王女の姿があった。
彼女は、今桐島が着ているような黒のビジネススーツに身を包み、整髪料を使っているのか、髪を寝かせてビシッと横分けにしている。かなり大人びた雰囲気だ。
「おお、達也に雅。来おったか」
「おはよう。あの……どうしたの、それ?」
言うと、王女は姿見の前で自分の格好をチェックしながら、
「ん、変か? 昨日ブティックとやらに行ったとき、採寸してもらったじゃろ? あのとき、ついでに頼んでおいての。急ぎ仕立てて届けてもらったのじゃ」
俺と桐島が唖然としていると、今度はソファのほうから森本の暢気な声が飛んでくる。
「あ、桐島さーん。ちょっと教えていただきたいんですがー」
見れば、彼女もまたスーツを着込んでおり、自慢の長い緑髪をうなじが覗くほど高く結い上げていた。
昨日買った化粧品を一揃いテーブルに並べ、鏡の前でなにやら格闘している。どうやら携帯を使い、動画サイトで化粧のやり方を勉強しているようだ。
「このマスカラの使い方なんですけど――」
「ああ、はい。これはですね……て、いやちょっと待ってください。その前に、これはどういうことなのでしょう?」
桐島の質問に、王女が平然と答えた。
「きょうは大使館を回るのでな。失礼にならんよう、こちらの正装に合わせてみた。我らの国には『郷に入りては郷に従え』という言葉があってな」
「私たちの国にもありますけど……」
「そうか。やはりな」
「やはり?」
「いや、なんでもない」
「それより殿下。今、大使館とおっしゃいましたか?」
「うむ。昨晩、アルバートに電話してアポとやらを取っておいてもらったんじゃ」
言って、王女は手に持った名刺をこちらに振って見せる。俺は彼女が、官邸で彼から名刺を受け取っていたのを思い出した。
「わらわと森本のふたりは、きょうはアルバートと共に大使館を回ることにした。とりあえずアメリカとロシアと中国、フランス、イギリス、ドイツの六ヶ国じゃ。各国の首脳とも話ができるらしい」
「殿下ッ! なぜ我々に何の相談もなく――」
桐島が声を荒げるも、王女は悪びれた様子もなく、
「怒るな。おぬしらを信用していないわけではないが、我らとしては多方面からこの世界の情報を集めたいのじゃ。別に日本をないがしろにしようというのではない。……予定を組んでもらっていたなら悪いのじゃが、きょうは武井を連れて行ってやってくれんか。慣れぬ地で気を張っていたのか、疲れてまだ寝ておる。わらわのそばでは、羽を伸ばすこともできんじゃろうしな」
と、そのとき王女の携帯が着信音を響かせた。
「もしもし……おお、アルバート。今、下か? ……うむ、これから降りる」
そう言って、通話しながら部屋を出て行こうとする王女。
「森本、行くぞ! 早うせい!」
「ちょ……ちょっとお待ちください、姫様!」
森本はコンパクトの鏡を見ながら急いで口紅を塗り、それを追いかけていく。
ふたりが部屋を出て行ったあと、桐島はすぐさま携帯を取り出した。舌打ちしながら、どこかに電話をかける。
『――どうした?』
スピーカーホンにしているらしく、俺にも相手の声が聞こえてきた。山村だ。
「室長、問題発生。王女殿下がアルバート・ノーマンと接触。きょうは我々と別行動を取り、森本と共に主要国の大使館を回る模様。何か仕掛けますか?」
『必要ない。いずれは起こりうる事象だ。……もうひとりの少年従者はどうした? きみたちが案内するのか?』
「そうです」
『では、きょうはシェラハザードを落とす』
その言葉に、桐島が息を呑むのが分かった。
「まさか……ハニートラップですかッ!?」
『そうだ』
「し、しかし、彼はまだ子供ですし、潔癖なタイプです。逆効果になるおそれがあります。それに私はまだ男性とそういう経験をしたことが……いや、なんと言いますか、初めてはちゃんと彼氏と、その――」
顔を真っ赤にしながらあわあわしはじめる桐島に、山村の冷徹な言葉が浴びせられる。
『馬鹿か、おまえは。誰も貴様にそんなスキルは期待していない。もう少しソフトなやり方を考えてある。……田中、聞いているな?』
「は、はい!」
『これまでの会話で得られた情報によれば、シェラハザードは平民に近い貴族の息子ということだったな。歳は一五。王女付きの騎士見習いとして今回の訪問に同行。護衛としては不自然に思えるが、そのあたりの事情は何か掴めたのか?』
「護衛というわけではないようです。本人はそのつもりのようですが……単なる付き人のような関係ではないでしょうか。そもそも、王女殿下は最初に会ったときから身の危険をまったく感じていないようでした。これは勘ですが、彼女自身が相当、腕に自信があるのかもしれません」
『ふむ。シェラハザードの王女に対する態度はどうだ?』
「完全に心酔してます」
『ライクか? ラブか?』
「ラブに近いライクかと」
『よし、ちょっと待て』
言って、山村は三〇秒ほど沈黙する。小さくキーボードを叩く音が聞こえた。
『……現在、日本橋の東宝シネマズで劇場版アニメ「異世界王女とクソニート」が上映されている。知っているか?』
「名前だけなら」
『上出来だ。一回目の上映が一〇時から始まる。そこに連れて行け』
と、そこへ桐島が横から口を出す。
「あのぅ……室長? その、異世界なんとかというのは?」
『現実世界のクソニートが異世界に転生したら、なぜか大活躍して女の子からモテモテとなり、最終的に王女ともイチャコラしてしまう萌え系ラブコメだ。個人的には原作の魅力を完全に引き出せているとは言いがたいし、ネットの評判もそこそこというところだが、シェラハザードの年齢と立場、アニメに免疫がない点を考慮すれば、ハマる可能性は充分考えられる。――そこでだ』
山村はいったん言葉を切ると、
『田中。秋葉原で勤務していたなら、王女に似ているメイドに心当たりはないか?』
「そうですね……〈ラ・マリエンヌ〉のキララ嬢がベストかと」
『よし、映画を見終わったらそこに連れて行け。こちらで手を回し、きょうはヒロインのコスプレをさせるよう手配しておく。万一、メインヒロイン以外にハマるようなことがあれば連絡してこい。ああ、パンフレットを買い与えるのを忘れるな。特典でヒロイン全員集合の描き下ろし水着イラストが付いてくる』
「心得ました」
『その後、夕食にも彼女を同伴させる。赤坂の〈雲龍亭〉を予約しておいた。普段から政府が密談に使っている場所だ。そこで彼に酒を呑ませる。呑めないと言ったら「まだ子供だな」とでも言って適当に挑発しろ。生意気盛りだ。必ず食いついてくる』
「は、はい。しかし、彼はまだ未成年ですが……」
『充分に情報を引き出したら、べろべろに酔いつぶしてホテルに送り届けろ。全裸にしてベッドに寝かせ、隣にヒロインの等身大抱き枕を忍ばせるんだ。枕元に原作コミックと同人誌、フィギュアを置くのも忘れるな。これらはフロントに預けておく。抱き枕に頬ずりしている写真を撮ったら作戦終了だ。いずれ、役立つときが来るかもしれん』
「室長ッ! それはあまりに――」
俺は抗議の声を上げたが、山村は断固とした態度を崩さない。
『外交に情けは無用だ、田中。非情になれ。各国諜報部の動きも慌ただしくなってきた。諜報戦はこれからが本番だ。気を引き締めてかかれ』
その言葉と共に、ブツリと通話は途切れた。
しばらく、呆気に取られる。
国益とは、ここまでして守らねばならないものなのか――俺は自分に背負わされた責任の重さを痛感し、大きく溜息を吐いた。
「室長って、けっこう冷酷な人だったんですね……」
「山村室長は外務省では伝説の人物よ」
携帯をしまい、厳しい表情で答える桐島。
「在外公館時代、中東諸国の石油王を何人も重度のアニメオタクにして日本のオタク産業に莫大な利益をもたらしたのを皮切りに、萌え漫画のアラビア語翻訳を推し進め、兵士の戦意を激減させることでイスラエルとパレスチナの和平条約を実現。イスラム過激派組織に美少女恋愛ゲームを布教し、メインヒロインを巡っての内部抗争に導いたことすらあるわ」
「そ……そんな馬鹿な話、聞いたことないですよ!」
「手柄は何かの条件と引き替えに、当時の大臣やアメリカに譲り渡したって話よ。私が入省するだいぶ前のことだから、よく知らないけど」
窓から望むビル群を眺めながら、彼女は続ける。
「日本には資源がないでしょ? 平地が少なく、農業国としても成り立たない。これまでは工業立国としてやってこれたけど、経済摩擦を避けるための現地生産が基本となった今では輸出もおぼつかないし、今後は少子化で国内需要は目減りする一方。移民を受け入れるのが唯一の解決策だけど、それでは日本の個性が失われてしまいかねない。山村さんはそう言って、昔からアニメやゲームといったコンテンツ産業の育成を主張してきた人でね。その強引なやり方には否定的な意見もあるけど、常に結果を出してきた。この先、もし日本が戦争に向かうことがあるとすれば、外交交渉の中心に座るのは山村さんをおいてほかにはいないでしょう。そして、その彼が異世界対策室の室長に抜擢された――」
桐島は振り返ると、俺を見据えて決然と言い放った。
「覚悟しておくことね。政府はおそらく、最悪のケースを想定して動いてるわ」




