25 竜のまぐわい亭(1)
夕暮れの街角に、女の悲しげな泣き声が響いている。
「おうっ……うえっ……おぐうっ……!」
オークの死体で作った着ぐるみを着たため、桐島は現在、血と脂まみれの状態だった。
一応、身体は拭いたものの、こびりついた汚れとにおいまでは落としきれず――仕方なく商人にもらったズタ袋などをかぶせてみたのだが、彼女はそれが気に入らないらしい。
「ううっ、生臭いよぉ……ぬるぬるべたべたするよぉ……」
いくら異世界とはいえ、今の桐島のように嗚咽しながら腐臭をまき散らしている人間というのは珍しいのだろう。道行く人々が遠巻きにこちらを見ながら、ひそひそと何か囁いている。
奴隷商という設定だったのだが、もしかしたらこの国に奴隷制度はないのかもしれない。
「まずいなぁ。目立ってますよ」
「おい、桐島。いいかげん泣きやむか体臭を抑えるかしたらどうだ?」
「あ・ん・た・ら・ねぇぇぇぇぇ!」
袋に開けた穴から汚れた顔を出し、桐島は涙目でこちらをにらみつけてくる。
「こんな簡単に入れるなら、私、オークに変装する意味なかったよねッ! 最初から普通に交渉すればよくないッ!?」
「ちょっと桐島さん、寄らないでもらえますか? 臭いんで」
「うるさいッ! あんたが立てた作戦でこうなったのよ!」
ちなみに俺と早乙女も、服の上からマントを着込んでいる。これも商人に譲ってもらったものだ。
目立たないようフードを目深に下ろして街並みを観察すると、大通りにはさまざまな種類の商店が立ち並んでいた。夕食時だからだろう、大勢の人出で賑わっている。
「ところで早乙女さん。商人の人とは、こんなにすぐ別れてよかったんですか?」
「そうよそうよ! 宿の場所も聞かずに別れるなんて!」
「われわれが王女と敵対していることがバレたら、裏切られる可能性がある。居場所を知られるのは危険だ。まずはJA5と合流するのを優先しよう」
早乙女はそう言うと、懐からメモのようなものを取り出した。
「宿の名前は、確か《竜のまぐわい亭》だったな。一応、無線で話したときに地図は作っておいたんだが、うーん……」
「結構、入り組んだ街みたいですよね。誰かに聞いてみます?」
「だが人に尋ねるにも、この格好では――ん? 達也、お母さんはどうした?」
「えっ?」
と、周囲を見回すが、お母さんの姿がどこにも見えない。
まさか、この人混みではぐれたんじゃ……。
「あっ、いたわよ! あそこ!」
桐島が指し示した方角を見る。と、お母さんは何やら八百屋らしきお店の前で、エプロン姿の女性たちと談笑しているところだった。
どうも近所の主婦たちの井戸端会議に参加しているらしい。
「完全に溶け込んでるわね……」
「うむ。お母さんのファッションセンスは万国共通のようだな」
「でも、一体何を話してるの? 初対面でしょ、あれ」
「分からん。だがお母さんの社交性は、時に人智を超える。ここはしばらく様子を見よう」
――数分後。
お母さんは、にこにこと手を振りながらこっちに戻ってきた。
「例のお宿は、あそこの路地を入った先にあるみたいですよ。地図も描いてもらってきました♪」
「そ、それは助かりますけど――駄目ですよ、お母さん! 一人で勝手にうろうろして、はぐれたらどうするんですか!」
「すみません。卵が特売だったもので、ついふらふらと……」
見れば、お母さんのトートバッグがさっきよりも少し膨らんでいる。また、袋の口から長ネギのような野菜も飛び出していた。
「なぜ見知らぬ街に着いて早々、卵を――て、あれ? お金もないのにどうやって買ったんですか?」
「それが皆さん、これを使ってるみたいで」
そう言ってお母さんが取り出したのは、別れ際に商人が渡してくれた、お菓子の袋。よく見ると、中のビスケットには《1000》や《5000》、キャンディには《10》や《100》などの数字が入っている。
商人は「何かの足しに」とか言っていたので、てっきり「腹の足し」のことだとばかり思っていたが――。
「これで……買い物ができたんですか?」
「はい。あと、おまけでコロッケもらっちゃいました♪」
「常連でもないのにッ!?」
お母さんから分けてもらったコロッケを納得いかない顔で頬張りながら、桐島はそっと早乙女の袖を引っ張った。
お母さんに聞こえないような小声で、
「ちょっと、早乙女。いくらお母さんとはいえ勝手がすぎるんじゃない? 少しは注意したほうが――」
「いいんだ」
「はあ?」
「お母さんは――これでいいんだ」
「……もはや説明すらしなくなったわね」
◇ ◆ ◇
うらびれた路地に相応しい、うらびれた宿。
その入口にはうらびれた看板が掛けられており、《竜のまぐわい亭》という派手な書体の文字と、二頭の竜が交尾している卑猥なイラストが描かれている。
立て付けの悪い扉を開け、中に足を踏み入れる――と、一階は酒場になっているようだった。
きついアルコールと香水の香りに混じり、吐瀉物のようなにおいも漂ってくる。
そこには、やはりうらびれた雰囲気が充満しており、まばらにいるうらびれた客たちが、うらびれた目でこちらを見つめてきた。つくづくうらびれている。
早乙女はその薄暗い店内を一通り見回すと、隅のテーブルで飲んでいる一人の男に向かって躊躇なく近づいていった。俺たちもその後ろについていく。
「JA5か?」
「ああ。思ったより早かったな。無事に――」
男は、声から想像していたより年を重ねている印象だった。
四〇代後半……いや、実際はもっと若いのかもしれない。日に焼けた肌と、頬の傷痕、そして鋭い眼光が正確な年齢を判断しづらいものにしている。
彼は桐島の姿を見てしばらく固まると、
「そいつがツンデレぺちゃぱい娘か。どうした? 血まみれで、とても嫌な臭気を発しているが」
「気にするな」
「気にしてッ! そしてお風呂を用意して!」
と、そのとき。
俺たちのテーブルにウエイトレスがやってきた。
「いらっしゃいませー」
二十歳くらいのその女性は紐かと思うような露出度の高い服を身に着けており、グラマラスな肢体を見せつけるように、艶めかしい動作で水の入ったグラスを置いて回る。
角と尻尾が生えているところをみると、これがサキュバスというやつなのかもしれない。
「あら、ゴローさん。今夜はお連れがいるのね。もしかして、こちらのかわいい坊やの筆下ろしかしら」
彼女はそう言って、俺の顎に手をかけながら耳元に息を吹きかけてきた。
内心ドギマギしながらその肢体を盗み見ていると、桐島が無言で俺の足を踏みつけてくる。
「だったら、ぜひ私に任せてちょうだい。それとも、もっと若い娘のほうが好みだったりする? ちょうどきょうは新しい娘も入ってるけど」
「いや、筆下ろしはまたにしてくれ。連れの分の食事を頼む。あと、風呂を使いたいんだが」
「分かったわ。じゃあ、準備ができたら呼びに来るから」
JA5にビスケットを何枚か胸にねじ込まれ、またお尻をふりふりしながら離れていく彼女。
その様子を見ていた桐島が、小声で早乙女に話し掛けた。
「ね……ねえ、早乙女。ここって、なんかいかがわしい感じのところじゃない?」
「ああ、売春宿なんだろ」
「ば――ッ!?」
驚く桐島に、早乙女は冷静な顔で続ける。
「諜報員の常套手段だ。女のところに転がり込めれば潜入が容易になるし、こういう場所は情報も集まりやすい」
「ちなみに国営だ。日本も見習いたいもんだな」
その後、俺たちは互いに自己紹介を済ませると、情報を交換することにした。
運ばれてきた異世界の料理に目を輝かせ、お母さんが甲斐甲斐しくそれを小皿に取り分けている。
「――王女がまだ戻っていない?」
漫画に出てくるような骨付き肉を食べながら、怪訝な表情を浮かべる早乙女。
JA5の話では、王女たちの馬車が到着した様子はないのだという。
「ああ。政府関係とのコネクションはまだあまり築けていないが、確かな情報だ」
「どういうことかしら……」
と、サラダにドレッシングをかけながら、桐島。
「どこか別の目的地があったということだろう。心当たりはあるか?」
「いや、ない」
JA5からは、それ以上の有益な情報は得られなかった。昨夜の通信から、まだ一日も経っていないのだから当然だろう。
早乙女は話題を変えて、
「ところで、さっき渡していたのはこの国の通貨か?」
「ああ、ビスケット紙幣のことか? 鎖国後に不安が増大したせいだろう、金貨や銀貨の流通が激減したそうなんだが、代わって新しく生まれたのがこのシュガー通貨だ。他にもキャンディ硬貨や、高額なラングドシャ紙幣なんてのもある」
「へえ。腐ったりしないんですかね」
聞くと、彼はにやりと笑いながら答えた。
「腐るさ。だから腐る前に使わなきゃならないから、タンス預金なんかの防止になるんだよ。われわれの世界でいう、商品券に近い存在だな」
「でも、かさばって使いにくそうですよね」
俺の言葉に、桐島が真剣な表情で考え込む。
「いや、そう馬鹿にしたもんでもないわよ。私たちの世界でも、流動性を高めるため通貨に使用期限を設けるべきって考え方は昔からあるしね。まあ、使用できる範囲を限定しないと不動産や株に資金が集中して、すぐ破綻すると思うけど」
「この世界には精霊術があるから、紙幣や貨幣自体がエネルギーとしての価値も持っている。最終的には精霊に捧げてしまえばいいから、ロスが生じにくいのかもしれんな」
――そんな話をしていると、先ほどのウエイトレスがまたやってきた。
どうやら風呂の用意ができたらしい。
「そうそう、この宿の風呂は共用だからな。迷惑が掛からないよう、なるべくふたりで入ってくれよ」
そう言いつつ、JA5がちらりとアイコンタクトを送ってくるのを俺は見逃さなかった。
何かを察したのだろう、早乙女はお母さんに微笑みかけ、
「ではお母さん、お先にどうぞ」
「あら。私からでよろしいんですか?」
「はい。私はあとでいただきますので」
◇ ◆ ◇
きしむ階段、きしむ廊下……そして薄く響く女の喘ぎ声を聞きながら、俺と早乙女のふたりは二階の一番奥の部屋へと通される。
中に入ると、お母さんを風呂に行かせた理由が床に転がっていた。




