16 初めての馬車旅(2)
時刻は夕方。
日の暮れかけた深い森の中を、馬車はもう一時間近く走り続けている。
馬車での移動は初めてだが、思ったよりものんびりしたペースだった。人数や荷物が多いせいもあるのだろう、スピードは遅いし、頻繁に休憩が挟まれる。おまけに道もあまり舗装されていないため、時折激しい揺れが起きた。
「あー、酔いどめ持ってくるんだったわぁ……」
隣に座っている桐島が、げっそりした顔でつぶやく。
その様子を見て、向かいの森本が心配そうに声を掛けてきた。
「すみません。街道に出れば少しは楽になると思うのですが」
「あの、森本さん。治癒魔法というのを使っていただくわけには――」
「うーん……乗り物酔いの場合、一時的に症状が消えるだけでまたすぐにぶり返しちゃうんですよね」
膝の上に載せた崎陽軒のシウマイ弁当を食べながら、森本。
その隣では、王女がじゃがりこをポリポリ食べながら携帯ゲームで遊んでいた。暇そうにポケモンを捕まえているその姿は、まるで帰省中の子どものように見える。
また、どこで知ったのか、彼女らは折りたたみ式のソーラーモバイルバッテリーを持ち込んでおり、御者台に設置していた。
「ねえ、殿下。王都まではあとどれくらいかかるの?」
「んー……順調にいけば夜中くらいかの。今やっと半分くらいじゃ」
「正直、転移魔法とか、竜に乗っていくみたいな展開も期待してたんだけど」
「そういうのもなくはないんじゃが……」
と、彼女は言葉をにごらせる。あとを引き継ぎ、森本が口を開いた。
「我が国は、転移魔法の使用や竜の所有が禁じられているんです」
「へえ。どうしてですか?」
「戦後の取り決めといいますか。転移魔法には国内で採れない特殊な鉱物が必要なんですが、それが輸入できなくなってます」
「――ABCD包囲網のようですなあ」
突然、後方からノーマンが口を挟んだ。
桐島が彼に冷たい目を向ける。
「ずいぶんと歴史にお詳しいようで」
「ええ。日本に赴任することが決まって、いろいろ勉強しましたから」
そう言って、にこりと笑うノーマン。
俺は彼に、以前から気になっていることを聞いてみた。
「そういえば、ノーマンさん。駐在武官って何なんですか? 前にウィキペディアで調べたんですけど、よく分からなくて――痛ッ!」
なぜかはよく分からないが、桐島から肘打ちが飛んできた。ノーマンは答えを考えているのか、興味深そうな表情で俺を見つめている。
俺の疑問には、代わりに早乙女が答えてくれた。
「大使館付きの軍人だ。外交官特権も持ってる。ひらたく言えば、おおっぴらに活動できるスパイみたいなものだな。気を許すなよ、達也」
「スパイはひどいですね」
苦笑しながら、ノーマンは大げさに肩をすくめる。
「スパイで悪ければ殺し屋と言おうか? 元海兵隊特殊部隊――駐在武官になる前は、特殊作戦軍第一戦隊オメガ作戦分遣隊で隊長を務めていた男だ」
「はあ……それって凄いんですか?」
「暗殺担当セクションだ」
答えながらも、早乙女はノーマンから片時も目を離さない。
馬車での旅が始まってから、ずっとそうだった。彼女は常に正面に座るノーマンを視界の中に捉えている。
「本来、同盟国に送り込まれるような男じゃない。おまけに派遣されてきたのは異世界出現の一週間前。アメリカは事前に何かを察知していたんじゃないか? もしくは、異世界の出現そのものに関わってるのか――」
「ミス・サオトメ」
ノーマンは表情に笑みを浮かべたまま、彼女の言葉を遮った。
「日本にもようやくまともな諜報機関ができたことは、同盟国としてうれしく思いますがね。自分から手の内を明かすのは上手いやり方とは言えませんよ」
「分かっているが、あまり舐められていても仕事がしづらいのでね」
……しばらくの沈黙。
何だか、空気が痛々しい。俺は場を和まそうと、努めて陽気な声を上げた。
「で、でも、異世界との通路が作れるんなら、わざわざ日本に作らなくても自国の領土に作るんじゃないですかね?」
「どんな影響があるかも分からないのに? 日本国内なら圧力をかければこうして人を送り込むこともできるし、あとあとどうにでもなると思ったのかもしれんぞ」
「――私からもよろしいですか? ミスタ・ノーマン」
と、今度は桐島が切り出した。
「三日前に、貴国からドクタ・クロムウェルが来日していますね」
その言葉を聞いた途端、お母さんの膝の上で眠そうにしていたティナがバッと顔を上げる。彼女は頬を紅潮させながら、興奮したように声を張り上げた。
「おい! クロムウェルというのは、マギー・クロムウェルのことかッ!?」
「そうよ」
「あのババア!」
「こら、ティナちゃん! そんな言葉遣いをしたらいけません!」
「お、お母さん! しかし、あいつはだな――」
めっ!と言って、両手でティナのほっぺたをつねるお母さん。
ノーマンは眉ひとつ動かさず、流れていく外の景色を眺めている。桐島が続けて言った。
「きのう行われた学会に出席するためだったそうですが、会場には姿を見せていないようです。ご心配ではありませんか? なにせ国防高等研究計画局の局長でいらっしゃいますし。専門は確か――」
「科学者というのは好奇心が強いものですからね。そこのマドモアゼルのように、異世界に興味があったのかもしれませんな」
「アメリカ政府は関与していないとおっしゃる?」
「もちろんです。ところでマドモアゼル――」
「ドクタと呼んでもらおう」
「ドクタ・エルドリッチ。あなたがここにいる……ということは、噂は本当だったわけですかな」
王女は先ほどからゲームをやめて、面白そうにこの状況を見守っていた。
御者台の武井が、何かを気にするようにちらりとこちらを振り向くのが見える。
「我々はどちらかといえば、あなたの味方ですよ。アメリカ政府も日本への亡命が認められるよう後押ししてるはずです。ただ、亡命が叶ったとして、そのあとで日本政府があなたを守り切れるかは疑問ですね。我が国を頼ったほうが賢明だったと思いますが――そうまでして、一刻も早くこの世界に来たかったのですか?」
「…………」
ティナは答えない。
ただ、お母さんの膝の上で悔しそうに歯を食いしばっている。彼女のそんな様子に、桐島が不審そうに眉をひそめてみせた。
お母さんは相変わらずにこにこしながら、ティナの髪の毛で遊んでいる。
「さて――私もちょっと小腹がすきましたな」
言って、ノーマンがおもむろに席を立ち上がった。
早乙女が腕組みするふりをして、無言で懐に手を差し込む。
「……ミス・サオトメ。銃から手を放してもらえませんか?」
「座れ」
全方位に気を配るためだろう、目も合わさずに彼女は言った。ノーマンはおどけたように口笛を吹き、肩をすくめて、また元の場所に腰を下ろす。
空気が重い。
喉が渇いている。
「あのぉ……先ほどから皆さん、何の話をしてるんですか?」
隣から、桐島が『黙ってろ』と目で合図してくる。
ノーマンは俺をまじまじと見つめ、
「まだ若いのに大したものだ。とぼけ方が堂に入っている」
と、本気で感心したように言った。
「正直言って、日本政府がここまで我々の裏をかけるとは思ってませんでしたよ。ミスタ・タナカ、あなたの経歴にしてもそうです。どんなに調べたところで、元警官としか出てこない」
そりゃそうだろうなぁ……と俺は思う。
「そこまでなら国防総省も喜んでましたよ。西側の防波堤として日本が強くなってくれるのは、悪いことではない。だが、ティナ・エルドリッチの亡命受け入れと、異世界への派遣。おまけにお母さんまで送り込んでくるとなると……これはいけません。やり過ぎだ。そこで我々は確信しました。ああ、日本はもう一度――戦争をやる気だってね!」
――ガタンッ!
再び席を立ったノーマンは、狭い馬車の中を驚くべきスピードで移動する。
「動くな!」
いつの間に抜いたのだろう。彼の右手には拳銃が握られ、その銃口はピタリとお母さんのこめかみに突きつけられていた。お母さんを無理やり引っ張り起こし、自分の前に立たせるノーマン。
早乙女も銃に手をかけてはいたが、抜くまでには至っていない。彼女は腰を浮かせかけた体勢で、悔しそうに歯ぎしりしていた。
「お母さんに銃を向けるとは……貴様、それでも軍人か!」
「あいにく、私は母にいい思い出がなくてね」
お母さんは不思議そうに首をかしげるばかりで、状況がよく分かっていないようだ。というか、俺もよく分かっていない。
「殿下、馬車を止めてくださいますか?」
「うむ」
王女が御者台に顔を出し、武井に何事か命じるのが見えた。すぐに馬のいななきが聞こえ、馬車がゆっくりと停止する。
王女らは、突然のこの事態にもいっさい動じる様子がない。ノーマンもまた、彼女たちに注意を払っていないように見える。
「王女殿下? まさか――」
「すまんな、達也。じゃが、この状況を想定できなかったとすれば、それはおぬしの落ち度じゃぞ。我が王国は強い者と組む」
そう言って、王女はまたじゃがりこを一本、口に運んだ。
森本は、まだもそもそと弁当を食べている。
「全員、銃を捨てて馬車を降りてもらおう。動きはゆっくりとな」
「……ど、どうします? 桐島さん」
「どうったって……民間人が人質に取られてるんじゃ、従うしかないでしょ」
「でも、このままじゃお母さんが!」
取り乱す俺に、早乙女が首を振る。
ここは言うとおりにしたほうがよさそうだ。
「おっと、ティナ・エルドリッチ。おまえはここに残れ」
「くッ――!」
「言うことを聞け。お母さんの頭を吹き飛ばされたいのか?」
「……分かった」
悔しそうな表情で、ティナはノーマンに近づいていく。
そこへ、
「お待ちなさい、ティナちゃん!」
「お、お母さんッ!?」
「こんなロリコンさんについて行っちゃいけません!」
相変わらず頭に銃を突きつけられた状態で、お母さんは毅然として言い放った。身をよじらせて拘束を解こうとしながら、
「だいたいなんですか、あなたは! いい年して、そんなオモチャを振り回して!」
「ちょ、ちょっと待て! あんた、俺たちの話を聞いていなかったのかッ!?」
「話はすべて聞きました!」
「だったら、どうして俺がロリコンになるんだ!」
「なんだか難しいことをいろいろしゃべってましたけど……要するにあなた、ティナちゃんを独り占めしようとしてるんでしょう?」
「いや、独り占めというか……」
「それで、アパートに監禁して制服着せたり、洗面器におしっこさせたり……そういうのお母さん、お昼のワイドショーで見たことがありますよ!」
「そ、そんなことするか! 馬鹿か、おまえは! ええい、おまえも降りろ!」
そう言ってお母さんを外に突き飛ばすと、ノーマンはティナの腕を掴んで強引に引き寄せた。俺はお母さんを抱きとめ、すぐさま後ろにかばう。突き飛ばされた際にお母さんがぶつかった積み荷が、いくつか地面へと散乱した。
(――お母さんになんてことを!)
俺がノーマンをにらみつけると、彼はニヤリと口元を歪めてみせた。
銃口が、ゆっくりとこちらに向けられる――。
「アルバート! 約束を忘れるなよ!」
「……分かっております」
ノーマンは少し不服そうに拳銃を上に向けると、今度はティナの頭にそれを突きつけた。
王女が荷台から顔を出し、拳銃を一丁、投げてよこす。
「まあ、おぬしらならここからでも自力で国へ帰り着くことはできよう。では、さらばじゃ」
「――出せ!」
ノーマンの言葉と共に、馬車がまた勢いよく走り出す。
その場に残された俺たちは、ただそれを見送ることしかできなかった。




