音のない渚にて
1
空にはうっすらとした夜の雲が流れていた。
あの雲から眺めれば、この街も随分と小さく見えるだろう――ルーヴは赤い屋根の上に腰をかけ、ぼんやりとそんな事を考えていた。
ルーヴはふと、顔を上げた。視線の先の大きな時計塔が、今、午前零時を知らせて、重い音を鳴らし始めた。冷たい風が、彼の少し伸びた黒髪を不規則に散らした。彼は静かにため息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
年老いた男が一人、ベッドに横たわっていた。側には小さな子供が三人と黒い服の女が二人、男の手を取って大柄な医者が立っていた。明かりはとても少ない。部屋の隅では、スーツを着た男達が、ひそひそと呟きあっている。
ルーヴは音もなくベッドに近寄った。彼は腕を組んで目を閉じ、少し早かったかなと思った。さっさと終わらせたい気持ちが、判断を鈍らせたのだろう。
不意に医者が何ごとか呟き、子供達が顔を上げた。二人の女は、互いに鋭い視線を交わし、スーツの男たちは小さく首を振って肩をすくめた。
ルーヴが見つめていると、程なくベッドに横たわった男の胸の辺りから、林檎程の大きさのぼんやりとした青白い光が浮かび上がってきた。彼は、慣れた手つきでそれを両手で包み込むと、自分の胸に押し当てた。子供達が大きな泣き声をあげ始めた頃、ルーヴの姿は部屋のどこにもなかった。
ルーヴは先ほど眺めていた雲の高さに立って、街を見下ろしていた。その姿は夜の空に溶け込んでいる。
(結局、僕は人間が言うようにやっぱり死神なのだろうか――そんな訳の分からない存在なのだろうか)
ルーヴは、溜息をついて空を歩き始めた。「仕事」が終わると、海に向かうのが彼の習慣だった。
ゆっくりとした足取り(正確には歩く真似)だったが、深夜には、ルーヴは静謐な渚にたどりついた。階段を下るように彼は砂浜にふわりと降りた。波打ち際に立って、波の音に耳を傾ける。
どれくらいそうしていただろう。ルーヴは、何か声が聞こえた気がして、顔を上げた。それは、風に乗って、随分と遠くから届いてくるようだった。
(なんだろう。声? それとも風?)
ルーヴは波打ち際を音のする方に向かった。やがて、それは風ではなく、意味を持った歌のように聞こえ始めた。彼には、こんな風に聞こえた。
春の夢を語る花、夏の太陽を映す花、
秋の黄昏を憂う花、冬の眠りを紡ぐ花、
そのどれよりもちっぽけで、ありふれた色だけど、
わたしは、こんなにもたくさんの美しさを知っている。
光溢れる色彩と、風を動かす命の力と、
たくさんの思い、想い、恋を、歌を、願いを、そして――。
そして、その全てがいつか枯れることも。
(歌だ。誰か歌ってる。でも、驚いた。本当に美しい声だ。今まで聴いたことがないよう)
ルーヴは声の主を探すことさえやめ、耳を澄ませた。
その全部の喜びと哀しみをわたしは誰に伝えられる?
花も、光も、雲も、風の音も、巡り巡る季節の事も、
わたしはいつまで伝えられる?
わたしの声はどこに届くの――?
わたしの、
歌声は不意に途切れた。いつの間にか目を閉じて聴いていたルーヴは、顔を上げ、声の消えた方向を凝視した。不自然な水の音が聞こえた。彼はその音を頼って近づいた。
長い髪の少女が、ゆっくりと海に向かって歩いていた。もう腰まで波に浸かっている。
ルーヴは呆然とそれを眺めていた。無意識に腕を組み、溜息をつき、頭を振った。何か呟こうとして口ごもり、うつむいた。そのまますぐに空を見て、もう一度視界の端で少女を見た。微かな月光に照らされて、長い髪が水面に広がるのが見える。少女は、歩みを止めるつもりはないようだ。もちろん、泳ぎ出すようにも見えない。
ルーヴは自分の鼻をつまみ、その手を顎に当て、小さく口を開けて、また閉じた。波の音が少し大きく聞こえた。少女の顔が、間もなく水中に沈もうとしていた。
ルーヴの姿は消えていた。
2
「――そう、時々言われるのよ。あの女優のエナス・ティリスに似てるって。でも、私はとても普通の女の子なのよ。休日にはお料理とか、編み物とかいろいろ勉強してるし」
「それは誰のためなのかな」
「もちろん、いつか現れる理想の人のためよ。私、こう見えても普通の家庭を夢みてるの。優しくて、それでいてきちんと自分の世界を持っている男の人と出会えたら、きっと温かな家庭を築けると思うわ」
「理想の人か――そんな人と出会えそうかい」
「ううん、やっぱり奇跡が必要みたい」
「奇跡か」
「でも、奇跡って、案外簡単に起こるかもって、今ちょっと考えてたの……」
夕餉の時間のレストランには人が溢れていた。給仕達が忙しく動き回り、それぞれのテーブルに料理を几帳面に届けていく。この若い二人にも、デザートのアイスケーキを運んだ。フォークを手に取った男は、上品な顔をした若者だった。女は――女は、少し不思議な感じがした。とても若くて美しいが、その表情にふっと底知れぬものをのぞかせる。どうやら女は、その「底知れぬ何か」を必死に隠そうとしているようだった。
「少し酔っちゃった。何だか暑いわ」
「確かにここは少し暖房が効きすぎているね」
「ええ、外の空気に触れたいわ」
「じゃあ、そろそろ――」
『クレイムストマーカ』
女の作り笑顔がほんの一瞬固まった。男は気付かずに続けた。
「――外に出よう。少しその辺を歩こうか」
「え、ええ」
『クレイムストマーカ』
女が顔を上げると、テーブルの横にルーヴが立っていた。奇妙な名前で呼ばれた女は、ほんの少し唇を引きつらせ、それを無視した。
「何か?」
『クレイカ。少し僕の話を聞いてくれないか』
「いえ、何でも」
『クレイカ』
女は、男に気付かれないように瞬間鋭い視線をルーヴに向けた。そして、口を押さえて、再び作り笑いを浮かべる。
「ごめんなさい。少しだけ、時間を頂ける?」
女は、化粧室に向かう――ふりをして、男から見えない柱の影に隠れた。ルーヴもそれについていく。男から、完全に見えなくなると、女は猛然と話し始めた。
「ちょっと、どういうつもり! 二年ぶりに現れたと思ったら、わざわざデートの邪魔をしにきたっていうの」
『デート? 何?』
「見て分からない。今、私は口説かれてるのよ。それもとてもいい感じで」
『そう。それは良かったね。じゃあ、ちょっと来てくれないかな。困ったことが――』
「ねえ、私の言葉をよく聞いてね。私は今とても忙しいの。あなたが何で困っているか知らないけど、今日は聞く気はないわ。分かった?」
『うん。良く分かったよ。じゃあ、本当にほんの少しでいいから助けてほしいんだ』
「……はっきり言うわね、ルーヴ・アウスレイス。イ、ヤ、よ」
『でもクレイムストマーカ、君は天使で――』
ルーヴがその単語を発した途端、女――クレイムストマーカは、ルーヴの頬をひっぱたいた。
「あなたにも言ったはずよね。私は、そんなモノはもうやめたって」
『でも……』
「うるさい!」
ルーヴは、そう怒鳴られて黙り込んだ。そのまま、クレイムストマーカの後ろを指さした。彼女は、ハッとしてその方向を見た。そこには、先ほどの男が立っていた。
「ア、アレス……」
男は、恐らく一部始終を見ていたのだろう。静かに首を振り、クレイムストマーカの肩に手をのせ、小さく呟いた。
「クレイカ、今日はゆっくり休んだ方がいい」
「あ、あの、送って……」
アレスは振り返ることもなく、さっさと勘定を済ませて店を出ていった。
『普通の人間には僕は見えないからね』
そう呟いたルーヴを睨み付けたクレイムストマーカの目には、確かに涙が光っていた。
「賭けてもいいけどね。その娘は、絶対――いい、絶対に――死んでるわ」
クレイムストマーカは、憎々しげに言った。ルーヴは少し顔を上げる。二人は、先ほどの渚に降り立った。
彼女の短い髪が風にさらさらと揺れる。ルーヴは、きょろきょろと辺りを見た。
「歌が聞こえたんだ」
「歌? 何それ」
「とても美しい声で歌ってた。それが突然途切れて」
「だから」
「僕はもう一度聞きたいんだ」
クレイムストマーカは、猛然と溜息をついて目を閉じて、すぐにまた開いた。
「こっちよ」
波打ち際でその少女はぐったりと横たわっていた。ルーヴは覗き込んで、眉をしかめた。
「息をしてない」
「言ったとおりでしょ」
ルーヴの表情をしげしげと眺め、クレイムストマーカは、怒ったようにルーヴに告げた。
「奇跡なんて、本当に起きるものじゃないのよ」
彼女は、少女のそばにしゃがむと、その顔に手をかざした。指先から淡い光の雫が一粒溢れて、少女の濡れた唇に落ちた。小さな体が少し震え、少女は低く呻いた。
「まだ若いから生命力がとても強いわ。何とかなるわよ。多分、もう気づくと思うけど、誰か人に知らせた方がいいかもね」
「彼女は、また、歌ってくれるだろうか」
クレイムストマーカは、ルーヴから視線を逸らして、深く息を吸い込むと、思い切りルーヴの頬をひっぱたいた。
「そう、ありがとうもなし? で、私には、誰が奇跡を起こしてくれるっていうの?」
クレイムストマーカの姿は、すいと消えた。
ルーヴは頬を押さえて、しばらく、少女を見ていたが、人の気配を感じて振り向いた。男性が走ってくるのが見えた。少女が目を開けたので、彼も姿を消した。
3
翌日、ルーヴは、午後になってからもう一度その渚を訪れた。
(どこを探せばいいんだろう)
彼はしばらく、その辺りを探索し、海沿いの道に小さな家を見つけた。どうやら別荘らしく、壁はどこも真っ白で、屋根は品のいい青色である。屋根のてっぺんに乗っている風見鶏が、くるくると回っていた。
ルーヴは、一応玄関で挨拶をし、ドアをすり抜けて中に入った。彼は、すぐに異変に気が付いた。玄関から奥へと続く廊下に、たくさんの紙が散乱していた。
(なんだろう。これは……楽譜?)
ルーヴがしゃがんで見てみると、確かに五線に音符が踊っている。そして、その上に、乱暴な筆跡で「うるさい」「声だけは」「あなたなんかに」などと書かれている。ルーヴは、それを一枚ずつ読みながら(中には読めないものもあったが)、それをたどっていった。ちぎられた楽譜には「よけいなお世話」とか「もう全部」といった言葉が記されていたが、総合するとどうやら彼女は「声を失った」らしいことが分かった。
(じゃあ、僕が聴いた歌は声を失う前のものなのだろうか。でも、声を失ったから昨夜死のうとしたんじゃ……)
ルーヴは混乱して、閉じたドアの前で立ち止まった。耳を澄ませると、中で乱暴な物音が聞こえた。しばらくすると、中年の男性が飛び出してきた。
「勝手にしろ! だが、今度馬鹿な真似をしたら許さないぞ」
男は襟を直して、歩き去った。ルーヴが覗き込むと、部屋の中では、昨日の少女が床に座り込んでいた。椅子やまだ破れていない楽譜、カップやメトロノームが無造作に散らばっている。白い服を着た少女はベッドにもたれかかり、床に大きく「二度と来ないで」と書いて、シーツに顔を埋めた。
ルーヴは、カーテンが朝から一度も開けられず重くたれたままであること、もう二度と少女の歌が聴けないことを理解して、そこに立ちつくした。
少女は、やがて泣き疲れて眠ってしまった。涙で汚れた顔は、精一杯自分の不幸を訴えようとして失敗したそれだった。
ルーヴは、部屋を片づけたり、窓を開けたりすることさえできない自分が、急に腹立たしく思えた。彼は、彼女を慰める言葉を山のように考えながら、ベッドの横をゆっくりと行き来した。
途中、先ほどの男性が入ってきて、少女をベッドに寝かせ、毛布をかけた。少女は眠ったまま口を開き、何か話した。もちろん、声はしない。男性の顔が一瞬悲痛に歪み、彼は首を振って出ていった。
なおもルーヴは同じ歩調で部屋の中を歩いた。彼女の名前をいろいろ想像しながら、医者の事を考えた。しかし、彼は人間には話しかけることも触れることもできない。
(そうだ、彼女なら)
ルーヴは、もう一度クレイムストマーカに頼もうと考えたが、昨日のやり取りを思い出し、奇跡を「安易にお願いする」ことについて彼は深く考えた。結論は出ない。いつしか日は傾き、カーテンの向こうの世界も暗さを増してきたようだった。たくさんの考えの中で、唯一形になったものは「明日も来よう」ということだけだった。
ルーヴは、別れの言葉を告げ、彼女の安らかな眠りを祈り、厚いカーテンをすり抜けた。
次の日から、ルーヴは晴れの日も、雨の日も「仕事」がない限り、その小さな家を訪問した。少女はいつもベッドに腰をかけ、ぼんやりと窓から海辺を眺めていた。彼女の父親男性が気晴らしにと、小鳥(今の彼女にはなんてやっかいな贈り物だろう)や花や、いろいろな本を買ってきた。だが、彼自身は忙しく、いつも深夜にならないと訪れることはなかった。
十日間ルーヴはそこに通って、部外者は自分と医者だけであることを知った。また、彼女が時々思いついたように広げる音楽の雑誌を眺めていて分かったことだが、彼女は、新鋭の歌手だったようだ。レイリという名前で、十七歳であることも知ることができた。
毎日は単調に繰り返しているように見えた。レイリは決して笑うことはなかったし、昼食後の短い散歩以外外に出ることもなかった。彼女の瞳は、曖昧な雲の欠片のようにぼやけ、儚い呼吸は時々止まっているように思えた。
ルーヴはいつもその横に腰掛けて、レイリを眺めていた。時々話しかけた。そしてずっと、今自分が何をすればいいのかを考えた。ただ、どんな名案も、実行に移すことはできないのだ。彼は何よりも自分自身が「死神」であることを思い知っていた。
しかし、変化は少しずつ訪れた。最初、レイリがカレンダーを一枚めくってある日付に丸印を付けた。その日はそれだけだった。三日後、彼女のベッドのサイドテーブルに青いカプセルの薬が置かれていた。それは眠り薬であるらしかった。彼女は毎日飲むふりをして、本棚の奥のガラスの瓶にそれを集め始めた。レイリはついに散歩もやめ、一日中ベッドに寝転がって、天井を眺めていた。週末には、父親が柔和な表情の男を連れてきて、質問を浴びせかけた。彼女は何も答えなかった。男は別の部屋で、父親に遙か遠くのサナトリウムのパンフレットを渡していた。
ルーヴはいつもその横に腰掛けて、再びあの歌声が聴ける可能性について考えた。
カレンダーがめくられた。すこし、気温が落ちた。レイリはある日、小鳥を逃がした。その事で父親と、言葉と筆談による口論をした。しかし、それを境に急に彼女は変わった。本を読み始め、散歩を再開し、時々、街まで足を伸ばすようにまでなった。父親は喜んで、また小鳥を二羽買ってきた。彼女は、たまった手紙を整理し、宛先別に整理した。ただ、ルーヴは知っていたが、レイリの瞳は相変わらず曇っていたし、本棚の後ろのガラス瓶は、もう青いカプセルで一杯になっていた。ルーヴは、ある予感に落ち着かなくなり始めていた。彼はその為、二度も「仕事」をすっぽかして、レイリのそばにいた。その為、危うく力を失いかけた。しかし、彼には何一つ出来ることがなかった。
そして、ルーヴは、その印まであと八日に迫ったある雨の日、その日が、彼女が出場するはずだった大きなコンクールの開催日であることを知った。
少女はかたく口を結んで、遠くを眺めていた。ルーヴは、ついに決心し、雨の空へ姿を消した。
4
ある大きなデパートの服飾売場で、クレイムストマーカは働いていた。彼女は、忙しそうに歩きながら、服を畳み、伝票を書き、商品をすすめていた。その華やかな場所にはまるで場違いなルーヴが現れたとき、クレイムストマーカは、腕を組んで睨み付けた。
『お願いがあるんだ、クレイムストマーカ』
「仕事中。見れば分かるでしょ」
『じゃあ、仕事が終わったら』
クレイムストマーカは、優雅に歩いて、商品棚を見て回る。ルーヴは後ろを着いて歩く。彼女は、まわりの店員に気づかれないように、小声で答えた。
「残念ね。今日も食事に誘われているのよ、私」
『夜中ならいい?』
「あのね、ルーヴさん。人間は夜中には眠るのよ。もちろん、私もそうするつもり」
クレイムストマーカは、さっそく客を見つけて、にこやかに声をかけた。ルーヴはしばらくじっと考えていたが、客が商品を買って売場を離れたのを見て、もう一度話しかけた。
『僕、とてもおいしいケーキが食べられるお店を知ってるよ』
「え?」
『たぶん、世界で一番おいしいんじゃないかな。よければ今晩案内するよ』
クレイムストマーカは、きょとんとして、次の瞬間少し吹き出した。
「だってあなた、人間の食べるものは何も食べられないのに、味が分かるの?」
『もちろん、わかるよ』
「どうやって?」
『お客さんの表情を見るんだ。ほんの小さな目の動きや口元のほころび、一口目を食べたあとの小さな溜息なんかから、どれくらいその人がおいしいと思ったか知ることができるよ。それに、ケーキを作っている職人の表情も見る。本当にケーキを愛している人は、絶対にケーキに嘘をつこうとしないし、手も抜かない。僕は、どのケーキがおいしいかを知ってるし、いつ作りたてのケーキが出てくるかも知ってる』
「ケーキのためだけに私がデートをすっぽかすと思ってるの?」
『だって、君の大好物だから』
クレイムストマーカはちょっと唸ると、周りに人がいなくなったのを見て言った。
「万が一ケーキが思ったほど美味しくなかったり、私を都合のいい神様みたいに扱ったりしたら、またひっぱたくからね」
ルーヴは、深く頭を下げた。クレイムストマーカは、腰に手を当てた。
「もうちょっと嬉しそうにできないの」
三個目のケーキと二杯目のコーヒーを注文すると、クレイムストマーカは、やっとルーヴの質問に答えた。店の一番奥で、他のテーブルと少し離れている。
「つまり、そのコンクールか何だか知らないけれど、その子は八日後にまた自殺しようとしてるってこと?」
『たぶん……』
「ありがと」
若い店員に微笑むと、クレイムストマーカは、手のひらを顔の前で閉じたり開いたりした。
「ねえ、持っていた何かを一つだけ失った者と、苦労してやっと一つだけ何かを手に入れた者と、どちらが本当に苦しんだと思う?」
『……』
「私は、正直言ってその子にとても腹が立っているわ。歌は歌えるから歌うんじゃないでしょ。声が出ないから死にたいなんて、もし良くなってもう一度歌っても、そんなの歌じゃない。ただの音よ。だから、悪いけど」
『違うんだ、クレイムストマーカ。彼女の声を戻してあげて欲しいわけじゃないんだ』
「じゃあ?」
『僕は人間に話すことが出来ない。触れることもできない。何もできない。何も伝えられない。何も。じゃあ、僕はいったい何なんだろう。僕のこの気持ちの意味は……』
「あなたね、それこそ自分で――」
クレイムストマーカは、ルーヴを見て、その続きを飲み込んだ。
『どうすることもできなかった』
クレイムストマーカは、ゆっくりと一つ瞬きをした。
「そう、でも、たぶん、あなたがまだ一つだけ試していないことを私は知ってるわ」
ルーヴが顔を上げると、クレイムストマーカは、明るい声で言った。
「どうして、声を失ったはずの彼女の歌があなたに聴こえたのかしら?」
『え?』
「聴くことができたなら、反対に届けることもできるはず。きっとね」
「お客様?」
店員が怪訝な顔をして、近づいてきた。
「あの、なにか、話されていましたが……」
「よほど心配だったのね。もう行ってしまったわ」
「は?」
「ケーキをあと二つお願い。今、できたてのがあるはずよね?」
クレイムストマーカは、ティーカップの中のコーヒーに映った自分の表情を見つめた。
5
ルーヴは、クレイムストマーカに言われた通り実行した。あの夜の声を思い出しながら、毎日同じ時刻に、決まった時間だけレイリのそばであの歌を歌った。
(僕は、うまく歌えているだろうか)
四日が過ぎ、ふとそんなことをルーヴは思った。レイリは、ルーヴが訪ねる時間には、決まってベッドの横の椅子に腰をかけ、ひざの上に厚い本を乗せて、顔を伏せていた。眠っているようにも見えた。
ルーヴはその横に立ち、背筋を伸ばし、胸を張って、よどみなく優しい声で歌った。
春の夢を語る花、夏の太陽を映す花、
秋の黄昏を憂う花、冬の眠りを紡ぐ花、
そのどれよりもちっぽけで、ありふれた色だけど、
わたしは、こんなにもたくさんの美しさを知っている。
光溢れる色彩と、風を動かす命の力と、
たくさんの思い、想い、恋を、歌を、願いを、そして――。
そして、その全てがいつか枯れることも……。
(悲しい歌かも知れない。でも、彼女は、この歌を僕に聴かせてくれた。僕は、その事を伝えたい)
五日が過ぎ、六日が過ぎ、七日目の夜が来て、すぐに一週間が過ぎた。
八日目の朝、ルーヴは、町一番の時計塔の屋根の上にいた。
「いかないの」
珍しくクレイムストマーカが、本来の姿で現れた。彼女の背中に翼はなかったが、姿そのものに光のベールがかかっている。彼女が少しでも動くと、美しい光のもやが揺れた。
『怖いんだ。もう、何もかも終わっているかも知れない』
「まあ、あなたらしくないわね。何だか、恋をした人間の男の子に見えてよ」
『そうかな、クレイムストマーカ』
クレイムストマーカは、輝く瞳で瞬きをした。
「あなたは、できることをきちんとした。自信を持って行けばいいのよ」
『それを伝えに来てくれたの』
「ええ、ちょっとだけ気になってね」
ルーヴは立ち上がった。朝日を眺めて、空に一歩踏み出す。
『ありがとうクレイムストマーカ。君はとても親切だし、それにとても綺麗だ。でも、僕は人間の姿の方が好きだな』
クレイムストマーカは声を上げて笑った。そして、ルーヴの背中を軽く押す。
「人間の姿の方も、でしょ」
渚の近くの小さな家に少しずつルーヴは近づいた。彼は戸惑いながら、一歩一歩空を歩いた。
深い青色に溶けた雲と純白の柔らかな光が重なり合っていた。ルーヴは腕を組み、やがて、いつもの時間にあの小さな青い屋根を見つけた。
いつになく静かな午後だった。とても高いところでだけ、風が吹いている感じがした。
(彼女は……)
部屋は空っぽだった。ベッドの上には、空っぽのビンが落ちていた。静かな風が吹いて、机の上の厚い本のページを不規則に繰っている。
ルーヴは目だけ動かして部屋を見回した。見慣れた光景だった。しかし、彼女がいない。レイリの姿がない。
(僕はずっと未来までこの事を後悔するんだろう……)
そう、ルーヴが思った時だった。小さく、しかし、透き通った声が聞こえた。
(どこから――)
ルーヴは、顔を上げると、音のする方向に歩き出した。彼が壁をすり抜けると、目の前に白い波が寄せる渚が広がった。ずっと遠くで、白い簡素なドレスを着た少女が立っていた。ルーヴは、彼女の姿が消えないかと思って、そっと近寄った。波打ち際に無数の青いカプセルが散らばって、波に揺れている。
全部の喜びと哀しみをわたしは誰に伝えられる?
花も、光も、雲も、風の音も、巡り巡る季節の事も、
ルーヴは、レイリの長い髪が風に揺れるのを見ていた。
わたしはいつまで伝えられる?
私の声はどこに届くの――?
私の声はあなたに届くの――?
歌が止んだ。冷たい風が静かにすり抜けた。レイリは、風に乱れた髪を直して、髪に手を当てたまま、ゆっくりと振り向いた。目が少し細められる。ルーヴは、じっとその瞳の色を見ていた。
そしてレイリは、少し首を傾げるような仕草で、穏やかな微笑みを、その口元に、確かに浮かべた。
あなたに――。
<了>
私はギャグ小説も書いてますが、何だかここにいない何かに憑り付かれているようです。夢に描いた世界で、理想の誰かに会えるといいなと思います。皆さんは今会いたい人はいますか?