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第9話 振り子


 もともと土佐藩は、親徳川である。それがこれよりたった二か月ほど前、大政奉還がならぬのならば倒幕も致し方なしという考えが藩の大部分を占めていた。変な話といえばそうなのだが、その大政奉還が奇跡的になった。その反動なのか、藩論は振れた振り子が戻るように佐幕へと向かう。容堂も二日前、京に向けて出立した。徳川将軍家を新政府の中心に据えるためなのだ。とはいえ、まだ予断を許さない。越えなくてはならない山は幾らでもあり、それによってはまた倒幕に傾くかもしれない。容堂にとって、これからが正念場なのだ。


 下士はともかく、乾や唯八らは山内家においてまさに鬼子であった。その鬼子を容堂はよく使っていると言える。いや、乾らが後ろに控えているからこそ薩摩や長州などの倒幕派と堂々と渡り合うことが出来た。


 土佐の佐幕派にはそれを理解する者なぞいない。折り良く、なにかと乾のかたを持つ容堂がこの土佐にはいない。機会を狙っていた佐幕派が魑魅魍魎のごとく蠢き出すのは至極当然であった。


 その夜、樋口は小松家を訪ねた。そして、新兵衛を前にして一通り説明した後、「藩命である」とダメ押しした。


「めっそうもない」


 平謝りに謝る新兵衛だったが、かまわず樋口は、背けば斬首、軽くても永年禁固だと脅した。とはいうものの、それは嘘である。実際、命を受けたのは乾のみで、藩は誰それと指名したわけでもなく、折も折りである、下士を連れていけとそっけないものだったという。断るべくもなく乾はそれに対し恭順したものの、小笠原兄弟を連れて行くことだけは理解を求めた。藩の重役は、二つ返事であったという。


 そうとも知らず新兵衛は腕を組むと、苦虫を噛み締めたような顔をした。それを見守る樋口は笑をたたえたまま、新兵衛の言葉を待つ。どんな誘いも断り、時勢にも乗らず朽ちていこうとしている男の心境とは一体どのようなものであるか。


 別に樋口は新兵衛を蔑んでいるわけでない。おとこは生涯に一事なせばよい、いまこそその時ぞと心の内でつぶやいていた。


「分かり申した」


 肩を落として新兵衛は小さく言った。未練たらたらの残念がり様である。だが、それに樋口は内心、手を叩いた。この男でよい。常通寺橋での武功で選んだわけでない。だれもが己の意地を通すために命をかける。だが、常通寺橋の一件で分かったのだ。この男も命をかける。そのかけ方が他と違うだけなのだ。


「お前さんの役目じゃが、乾さんの護衛じゃ。表向きは伝令ということにしておく。誰にも言うな。特に乾さんにはな」


 首領に内緒ってのもよく分からない話だが、その樋口が去って、新兵衛は一息ついた後、寝屋に入った。


 するとそこには端座たんざしたゆきの姿がある。


 何をやっているのかと慌てた。風邪をひいたら大変だと綿入れの上着をゆきにかぶせた。だが、面当つらあてなのだろう、それは払いのけられた。そして、ここへおすわんなさいと膝のまえに揃えた指を置く。新兵衛はすごすごと座り、ゆきと向かい合う。


「樋口先生のご用件は?」

「藩命が下った」

「あの魔物を捕らえるのですね」

「そうだが、わしの役目は伝令じゃ」

「伝令?」

「討伐隊とお城をつなぐ役じゃ」

「あなたって人は」とゆきはそこで言葉につまる。「その役目で満足なのですか」

「満足もなにも藩命じゃ」

「満足なのですね」


 新兵衛は答えない。


「分かりました。では、お伺いします」


 ゆきはこのような口をきく女だとは露ほども思わなかった。随分と我慢してひかえていたのであろう。その気持ちを理解した新兵衛は居住まいを正す。


「なぜ、お友達のお誘いをお断りなさっていたのですか?」


 新兵衛は答えない。


「おとぼけなさるな。龍馬さんのことです」

「知っていたのか?」

「知っているもなにも残念です」

「もう、終わったことだ」龍馬は死んでしまったのだ。


「わたしは今日、あなたさまが戦っているのを初めて見ました」と言うと突然、泣き始めた。それでもゆきは、たどたどしく言葉をつなぐ。


「お強いのですね。正直、古流と聞いていたものですから、這うように構えて太刀を立てる姿を想像して、シャンとしたお姿のお江戸の剣術や土佐の無外流や真陰流に比べ随分と見劣りし、実は名ばかりで弱いのだろうと思っていました。だって、あれってカブトムシみたいでしょ。それが素早く走って、身軽で、あなたさまはまるで牛若丸のようでした。思えば京八流の祖は牛若丸ですものね」


 そこでゆきが言葉を止めた。そして両手をついて頭を下げた。


「離縁していただきます」


「ま、待て!」 新兵衛は慌てた。「訳を申そう。龍馬に断った訳を」


 龍馬の手紙からもう剣術の時代ではないことを悟った。それで、ここいらが潮時、我が家伝も幕引きとしようと考えていたのだ。そしてそれはまがうことなき本心であり、嘘ではなかった。


「それだけですか?」


 痛いところをつくと思った。それは嘘ではなかったが全てではない。だが、それはおくびにもださない。


「それだけだ」


「嘘です。あなたさまは世間では薄情で通っておりますが、本当は情のあついお方。そんなあなたさまに嫁ぐことができて本当に良かったと思っています。けれどそれが本当に良かったのでしょうか。わたしの最後を看取りその墓の前でお友達に殉じようとあなたさまは、きっと思っておいでなのです。そうすれば全てが丸く収まるとお考えなのでしょう。あなたさまがお友達を見捨てるはずはありませんし、違いますか?」


 涙目のゆきを前にして、なるほど名案じゃ、そういう考えもあるのかと新兵衛は声を上げて笑った。


「ゆきよ。それは思い過ごしってもんじゃ。明日はきっと言うぞ。伝令は他の者にやらせてくれってな。それでわしはおまえに誓う。命を投げ打って戦う。だからもし死んだらそん時は末永くわしの墓を守ってくれるな」


 返事を待たず、ゆきの手を握った。そしてそのまま先に布団に潜り込み、その手を引いた。


「寒かろう」


 入ってくるゆきの肩を抱き、その冷たい足を新兵衛は足でさすった。





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