第83話 小春日
明治五年 十一月
新兵衛は釣りに行くとゆきに告げた。塵よけの手ぬぐいを頭に巻いたゆきが箒片手に言う。
「はいよ」
その声は弾んでいる。満面な笑みのところからしてみても、きっと釣果を期待していることだろう。それもそのはずである。しまあじ、いさぎ、ぐれ、はまち。新兵衛は何でも来いであった。自分自身、そんな才能があるとは思いもよらなかった。
才能といえば乾さんだ。いや、いまは板垣と名乗っているそうだが、戦が始まると薩摩の西郷隆盛や大久保利通がしり込みする中、甲州、北関東、会津と下士を率い瞬く間に敵を屠っていった。戦が短期で終わったのは板垣さんのおかけだと感謝するし、改めてその才能にも感心する。
新兵衛は、太刀を佩かずに魚籠を腰に括りつけ、竿を肩にかける。門を潜って通りに出た。ふと、見知った顔に気付く。
たえ。
三つ四つの小さな男の子の手を引き、背中には赤子がいた。時折、身を低くして子に語らいながらこっちに向かって来ている。新兵衛は、それを固唾を呑んで見守っていた。が、見向きもされずたえは通り過ぎていった。
たえはわしのことを知らなかった。ふふっ、そりゃそうだ。新兵衛はザンギリ頭をかいた。
小春日。
たえだけではない。それに誘われて通りにはいつもより多くの人が出ていた。急ぐ者。立ち話する者。何人か連れだって歩く者。新兵衛は、心まで暖かくなって往来を眺める。
ふと、その人ごみから子供二人が現れる。人を縫うように走って来たかと思うと新兵衛の前を、笑顔いっぱいで通り過ぎる。
はっとした。二人はまるで子供の頃の自分たちのようであった。泣き虫と引っ込み思案。よくじゃれ合って追っかけっこしたものだった。新兵衛は慌てて、二人が行った先へ振り向くと雑踏の中には、子供は一人しかいなかった。ポツンと立ち止まっていて、新兵衛を見ていた。この子はもう一人の子に置いて行かれたのだろうか。新兵衛は声を掛けようとした、が、止めた。
そういうことか。
「今から釣りに出かけるんじゃ。こんな心地よい陽気に、家に閉じこもっておったんじゃぁもったいなかろう」
新兵衛の投げかけた笑顔に、にこっと笑顔を返した子供は、楽し気な笑い声を残し雑踏の中に消えて行った。
《 了 》




