第78話 うたた寝
十二月六日
目を覚ますと見慣れた庭が広がっていた。といっても、こじんまりとした敷地に植え込みが数えるほどしかない庭だった。唯一の楽しみは一本ある山躑躅だったが、見頃はまだ何か月も先である。
あえて言うなら、今は苔がいい。枯れ木ばかりのところに形の悪い石があり、まずはその石に目がいく。表面にはもっそり苔が生えていて、それから目を配ると庭全体が薄暗く、日当たりが良くないのが分かる。川の傍なのも影響しているのだろう、刈り込んだ芝のように見える緑はすべて苔なのだ。
まぎれもなく、ここは我が家。それで六日の昼間はまさにこんな風に庭を見て、うたた寝していた。
戻ってきたか、と新兵衛は思ったその矢先、背中に綿入れがかけられた。傍らにゆきが立っていて、あって顔で見ている。
「起こしてしまいました」
新兵衛は喜びを隠さずゆきに抱きついた。もう何日も会っていないような気がする。いや、事実そうなのだ。ぎゅっと抱き絞め、その感触、その温もりを感じる。
「え? どういたしました?」
戸惑っているゆきであったがそんなことはかまわない。抱きしめたい。
「あなた。し、新兵衛さん、新兵衛さんてば」
ゆきは苦しそうだった。それにもまして新兵衛の、この行動になにか怖さを感じたようだ。おびえているのに新兵衛は気付くと、ぱっとゆきを離した。
そうだ、言わなければならない。
あの樋口真吉が訪れた夜、といっても『月読』の中では明日の晩、七日の出来事になるのだが、あの時ゆきは言った。なぜ、お友達のお誘いをお断りなさっていたのですか? と。
新兵衛は端座し、まだ立っているゆきの手を引いて座るようにうながす。
二人は真正面に見合う。あまりの急なことにゆきは身構えていた。
「いやいや、別段小難しい話しではない。夢に龍馬が出てきたんだ」
「あの、お友達の?」
「そう、文をよく送ってくるやつじゃ」
「その御方は亡くなられたのでは?」
ゆきの顔は青ざめていた。それはそうだ。ゆきはわしが腹を切るんじゃなかろうかと思い詰めているはず。
「そうじゃ、そいつがな、おれに悪戯をした。それが愉快でな。そのおかげでわしは家伝の奥義を習得した」
ゆきは何を言いたいのかよく分からないようであった。きょとんとしている。
「つまり、あいつはあの世で楽しくやっているちゅうこっちゃ」
そう言うと新兵衛はげらげら笑った。
「心配すんな。わしは幸せじゃ。おまえもそうだろ?」
ゆきは、えっとした顔をしたが、目が潤んできているのが見て取れた。
言いたいことが伝わった。安心した新兵衛はまたゆきを抱きしめた。するとゆきの温もりからか、急に眠気に襲われた。この肉体で実際戦っていたのではないけれど、心底くたびれた。
「ゆき、膝を貸してくれ」
返事を待たずして新兵衛は、その膝にうずもれた。瞬く間に、深い眠りに落ちて行った。
目を覚ますと、縁側は夕日に染まっていた。
あっと新兵衛は思った。飛び起きるとまだ、ゆきはいた。ずっとその膝を使っていた。
「きょうは帰れんかもしれん」
着流しの上に羽織をはおった。そこから袴に足を入れるのと、羽織に袖を通すのとを一緒にした。いっぺんに、というのは無理がある。身の釣合を失って、おっとっと、となって、ぴょんぴょんと飛ぶ。
ゆきが笑った。
新兵衛は驚いた。驚きすぎて硬直し、こけた。ゆきが声をあげて笑っている。そんな姿、連れ添ってこの方見たことない。
「わしゃぁ、おかしいか?」
「急にお変りになりました」
「わしがか?」
「いつも庭を見てばかりでした。さみしそうに、ずっと」
そういうことか、と思った。ゆきはそのわしの背をずっと見ていたんだ。
「すまなかった」
ゆきを追い詰めていたのはわしであった。わしが墓の前で腹を切るとゆきは心配していたが、ありゃぁやっぱり、ゆきの想いじゃった。時が来ればゆきは自らの喉を切るつもりじゃった。なんて罪作りなんじゃ、わしは。
「じゃが、わしは急がなければならん」
「御用が?」
「友達が待っておる」
ゆきが満面な笑みを見せた。「あなたさまがそのようなことを言うのも初めてです」
「そうじゃったな。わしゃぁ友達がいなかった。いや、いまはいる。安吾っていうんじゃ」
袴の紐をあわただしく結んで、「じゃ、いってくる」と新兵衛は屋敷を飛び出した。ゆきが言った。
「お気をつけて!」
ゆきのことは安心した。が、心配なのは安吾とたえだ。わしが死んでから後、どうなったのだろうか。新兵衛は弘瀬村へ向かって懸命に走る。




