第71話 凍える怒気
大きく息を吐いた。
新兵衛の雰囲気が変わった。それが、札を手に取る。
家々を下敷きに暴れる蛸と『大蛸』
誰もが息を呑んだ。『遊び』を終わらせるとか、そんな問題ではない。新兵衛という人間を手放しで認めた瞬間であった。
合わさった二枚は跳ね上がる。そして、島村寿太郎の持つ桐の箱に収まる。
真っ暗な南の空に白い筋が垂直に立ちあがっていくのが見えた。今までの場合、旋風に毛が生えたような渦だったが今度のは大きさといい、形といい、見紛うことなく竜巻である。
空一杯に広げた漏斗状の上端。天をかき混ぜるがごとく渦巻く中心は城下上空にあり、その一方で下端は、八の字を描きつつ新兵衛らに向けて凄まじい速さで迫って来ている。
それが寿太郎の手にある箱に着地したかと思うと空を吸引しているがごとくの漏斗の上端が、桐の箱に向けて一気に引き寄せられる。そして、その渦の中でぐるぐると回る巨大な赤い物体。
固唾を呑む。
この大きさで暴れていたのかと思うと背筋が凍る。壊滅している城下が容易に想像できた。それが、跡形もなくすっぽり桐の箱に収まった。
呆然とした。この世界は消えてしまおうともあまりにむごい。誰もが、新兵衛が、そう思った。
「実はな、隠しておったことがある」
唐突に、空心が言った。「後醍醐帝は討幕を願い、良運座主猊下は信長の死を願い、徳川吉宗公は将軍職を願った。つまりは、そういうことじゃ」
皆、その意味を察した。『月読』を上がればなんでも願いが叶う。小笠原保馬が、河野万寿弥が、小畑孫次郎が、森田金三郎が、互いに目線を送り合う。そして、その視線が最終的に集まったのが島村寿太郎だった。
その寿太郎はというと、眼をつぶり、なにかを考え込んでいるようだった。
不穏な空気が流れていた。
新兵衛はぶるっと体を震わせた。寿太郎が醸し出すのは、普段にもまして凍える怒気である。考えていることが凶事であることは紛れもない。果たして寿太郎が動きを見せたかと思うといまだ目覚めぬ小笠原唯八の、その頭に、手作りの槍を振り下ろした。
血しぶきが立ち、どばどばと流れ出る液体が地面をどす黒く染める。
寿太郎が怒号した。
「豪次郎と謙吉だ」
指示されて動いたのは小笠原保馬である。ぎゅっと木刀を握りなおすと田辺豪次郎の頭をかち割り、その返す刀で小笠原唯八の弟、謙吉の頭をも血で染めた。
暗闇の中で、新兵衛はその光景を唖然と見送っていた。一体、何がなんだか分からない。そんな新兵衛に五人の目が向けられる。どの目も餓えた野獣のようにギラギラと暗闇に光を放っていた。その中の怪しく光る一対が言った。
「子供たちは殺したくない。言うことを聞くか?」
新兵衛は固唾を呑んだ。「ああ」
「坊主はどうする?」と保馬。
寿太郎が言った。
「こやつはまだ大事なことを隠している。このままにしておく」
空心は、にたーっと粘りつくような笑い顔を見せた。「隠しておるのではない。その場になったら解説してやるわ。それまでは余計なことを言うつもりはない」
寿太郎は鼻で笑った。空心から『月読』の縁起を聞いて思うところがあった。こんな代物、伊達や酔狂でつくられたはずはない。なにかを得んがため、あるいは政敵を祟るためだったのではないか。それがまさか願いを叶えるためとは、思いもよらなかった。
いずれにしても木製の槍を造っておいてよかったと思った。『刀鬼』の対策ではあったが、いざとなったら空心をぶちのめすため、そして、仲間内での諍いをも想定してのことであった。
「続きじゃ、新兵衛」
寿太郎が命じる。子供を人質に取れれている新兵衛に逆らう余地はなかった。怖ず怖ずと新兵衛は札に手を伸ばした。




