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第70話 錯乱


 ほとんど死にかけの乾が突然、蓮台の上に手を差し出した。触れたらどうなるかを知らない乾ではあるまい。新兵衛は、何か意図があるんではないかと悠長に眺めていた。ところが乾は、一枚の札の上に手をかざした。まさか、と思った。実際にそれをやるとは新兵衛は考えもしなかった。かざしたそこから札に触れたかと思うと乾は電撃でぱあっと輝き、あとは黒焦げの遺骸である。くすぶってちょろちょろと煙を上げていた。



 一、『遊んでいる者』以外、触ってはいけない。助言もいけない。もしこれを犯したならばその者は雷に撃たれる。


 だれとも分からない遺骸を見ていると人なんてものはそういうものだ、と島村寿太郎らは感慨深い。それが乾であったから特にだ。乾の乾たらしめるその個性と、だれともわからない真っ黒い遺骸の落差はあまりにも大きかった。


 にしても、この死に方は乾らしかったのだろうか。乾自身はこれが潔いと考えたわけではあるまい。腹を切ったのとではまるで違う。いずれにせよ乾は、死を前にして血迷ったとしか思えない。


 寿太郎らには意味不明に見えた乾の行動であったが、その真意を理解する者もいた。絶対に乾の死には意味があるはずだ。新兵衛は、乾が最後に触った札を穴があくほど見ていた。


 これが、『月読』か。


 空心はというと、乾が触れた札が『月読』だと分かっていた。当初より場を見ていたので当然だと言えば同然だ。新兵衛が『月読』に手を出した時点で順番がたえに回ってしまうのだ。乾もそれは回避したかったのであろう。


 だが、そんなことよりも乾の狙いが、それのみであるかということが気にかかる。もし、考えている通りならば己にとって最悪の事態を招きかねない。


 阿部多司馬に、この世界から逃れるにはどうしたらいいのかと空心は問われた。あるにはある。が、空心らはこの方法を採れない。思念体ということも差し引いて、基本的には最後までいて札を全て桐の箱の中に入れなくてはならない。その空心の出来ない方法をいみじくも、乾はこの『月読』に触れることで達成した。それを空心らは裏の決まりと呼んでいる。



 一、完結すれば遊んでいた時間は失われる。ただし『遊び』に参加した者はその限りではない。


 その参加とは何をもって参加したということになるのだろうか。



 一、『遊んでいる者』以外、触ってはいけない。助言もいけない。もしこれを犯したならばその者は雷に撃たれる。


 これに抵触した者も参加したとみなされるのだ。裏の決まり。たぶん、乾は弟子の懐栄が電撃に打たれず、ただ元の世界に飛ばされたときにそれを察したのではなかろうか。


 となれば、桐の箱を手に入れることは危ぶまれる。現実世界での反撃が予想されるのだ。桐の箱を手に入れなければならない理由。是が非でも、真の目的、『月読』の勝者だけに与えられる特典を獲得しなくてはならない。それが出来たのなら、極論、桐の箱なぞはゴミだといっていい。


 ゴミは言い過ぎか。『月読』がもう一度再開されることも予想される。やはり、少なくとも桐の箱は手中に納めていないといけない。真の目的を達成できなければ尚更だ。わしが『月読』の所有者となって新たに『月読』を始めることになろう。


 さて、どうしたものかと空心は考える。まずは幸運を願うしかあるまい。それは新兵衛が失敗し、たえや安吾に順番を回すこと。その想いが天に通じたのか、新兵衛はというと、手に取った札を見て青ざめていた。


 家々を下敷きに暴れる蛸と『大蛸』


 乾が示した札を外して引いたのがそれであった。新兵衛にしてみれば『大蛸』は初出であった。


 が、それが本当の初出なのかどうかも分からない。たえが捲った札をまた捲っただけなのかも。いや、それはこの際どうでもいい。相方の『大蛸』が必要なのは変わらないのだ。たえが捲った個所、それが見られなかったのが今更ながら悔やまれる。


 捲った札が『大蛸』ではなく、『刀鬼』か、『大鯰』か、『鵺』かであったらどんなに良かったことか。さっさと捲って次に進める。だが、『大蛸』となると、また勘に頼らざるを得ない。苦しみは続く。九枚中、新兵衛が分かっている札は五枚。



 捲られてない札

 『雲の図案』

 『雲の図案』

 『雲の図案』


 新兵衛が捲った札

 『刀鬼』(化物発現中)


 新兵衛は戦闘中、札の位置は未確認 ※たえが捲った札

 『雲の図案』………『大蛸』(化物発現中)

 『雲の図案』(乾が死をもって示した)………『月読』(単体、この遊びの支配者)


 安吾が捲った札

 『大鯰』(化物発現中)

 『鵺』(化物発現中)


 新兵衛が捲った札 ※この時点、新兵衛はさらに一枚捲る権利を有している

 『大蛸』(化物発現中)



 にしても、水が飲みたい。


 喉が渇いた。ひりひりする。唾を呑み込もうにも粘々した液が口の中でのたくってどうしようもない。そこへ、こめかみから頬骨へ流れるひと筋の汗。虫が這うようで気持ちが悪い。追い払うように二回、手で頬を掃く。


 えっ?


 どれがどの札だったっけ? 


 自分で捲った『刀鬼』の札さえ分からなくなってしまった。目を凝らせば凝らすほど、思い出そうとすればするほど混乱する。頭を掻きむしって苦しむ新兵衛のその様子に、空心はというと、安堵の気持ちが湧く。これはまず間違いなくたえに回ってくる。


 新兵衛は心の整理もつかないまま、手を伸ばした。なにも決めていないので手の平は行き場を失い九枚の上で漂う。


 もういい、どうにでもなれ! と思った瞬間、はたと気付いた。


 わしはぁ、乾さんと違うんだ。


 子供たちを守りつつ、『月読』を終わらせる。最初に言った言葉を、乾さんは最後まで貫いた。わしはあの様に強くは生きられない。


 己はおのれ。そらぁ、間違いだってする。迷うこともあろう。弱いなりに、もがいて生きていくしかあるまい。


 確か、………これだった。乾さんの示した札は疑うべくもなく、これ。


 これは『月読』。絶対に引いてはならない札。そして、己の番を続けるには是が非でも『大蛸』を選ばなければならない。


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