第65話 『大蛸』
城下は混乱の渦となっていた。ほんのちょっと前、鏡川河口にぽっこりと島が出現した。それがあれよあれよという間に川幅一杯まで広がる。まん丸い、丘のような形状で川の流れにぶつかってぷかぷか揺れている。流されては行かない。かといって地面から突き出て来たようにも見えない。波に洗われる島の表面はゴツゴツとしていなく、あまりにも滑らかだった。
好奇心に誘われて人が集まってきた。川は堰き止められ、水かさも上げている。これからどうなるか、と心配する声も上がる中、誰かが気付いたのだろう、あれは目ではないかという囁きがあちこちから聞こえ始めた。
よく見ると、まん丸い島の川上にまるでイボのような丸い突起があった。波に打たれ見づらいがその突起の中央には全体の滑らかな形状とは相反して角ばった、横に長方形の、溝のような裂けめが確認できる。
猫の場合、瞳は縦に避けるようにある。横向きにあるということは、と誰もが考えた。思い当たるふしはある。蛸だ。
確かに全体の形状からして蛸が想像できた。だが、あまりにもでかい。しかも、蛸は知能が高いことでも知られている。身を隠すための道具として貝を使ったりとか、ガラクタを集めて巣の周りに飾ったりとか。
普段は海底でひっそりと暮らしている。そんなやつが何しにここに来たのか。まさかとは思ったが、誰もが嫌な予感がした。西洋では巨大なタコやイカをクラーケンと呼んだ。海の脅威の象徴として語り継がれているが、多分に漏れず『大蛸』は自然の脅威を呪術で象ったものである。存在意義を問われる『大蛸』としては人々にその脅威を示さなければならない。
大航海時代を経て来た西洋人ならいざ知らず、ここは土佐である。巨大な交易船が突如消えた理由が怪物の仕業かどうかは分からないまでも、巨大な蛸を目の前にすれば誰だって分かる。自分たちが余りにもちっぽけで、明らかに捕食の関係が逆転している。立ち去るべきだと野次馬が移動を始めた。
もちろん大蛸はというと、黙ってはいない。鏡川の中から触手が伸びてきたかと思うと逃げようとする見物人らを囲うように巻きつけ、束にして海中に引きずり込む。一つや二つではない。いくつもの触手が飛沫をまき散らしつつびゅんびゅん飛来し、河岸にずらりと並んだ黒山の人だかりを端から順に、逃げる間もなく瞬く間に、鏡川の中にさらっていく。
遠巻きにしていて辛うじて生き残った者たちは蜘蛛の子を散らすように城下町を内へ内へと走った。しかし、通りをまさぐる触手はそれをも逃がさない。皮膚感覚は驚くほど鋭敏で、触れたら最後その吸盤で吸着され、片っ端から水中に引き込まれていく。
揚句、触手は閑散とした通りから町家の中へと攻撃の手を移していく。どの触手もおのおの己の意思があるように家の中を這いまわり、どこに隠れようとも逃さない。一方で、海に浮かんだ丸い島は鏡川の流れに逆らって上へ上へと遡っていく。
新兵衛の家は江ノ口川沿いにあり、城を挟んでまだ内陸にあった。ゆきは、恐れ慄き逃げてくる人々に驚き、なにがなんだか分からないまま人波に揉まれて常通寺橋を渡る。
確かに、人が悲鳴を上げて触手にさらわれて行くのを目の当たりにしたら、誰しも自分を見失う。が、しかし、反撃を始める人たちもいた。丸太のような触手の根元は切り落とせないまでも、人を巻き付ける先端はなんとか切り落とすことができた。太刀はもとより斧やなたを手に持ち、果敢に応戦する。さらには藩兵も繰り出してきて、大蛸の本体に銃やら大砲やらを撃ちかける。
そもそも蛸は触手を切り落とされてもどおってことはない。それどころかわざと自分で自分の足を切り、それをおとりにして捕食者から逃れることもある。それが札の化物となればその再生速度は異常だ。失ったそばからもう再生を始める。つまりは、まったく攻撃が効果を示さないということだ。しかも、再生速度に肝を冷やしているところへ容赦ない触手の攻撃である。結局、藩兵も散り散りになって逃げ惑うばかりだ。
これよりちょっと前。ゆきはというと、藩兵が大蛸を撃退せんと躍起になっていたちょうどその頃、大膳様町を抜けて西町に入っていた。そこから目と鼻の先にはこんもりとした山があり、寺やら神社やらがいくつも集まっていた。胸を患っているゆきはあえぎ、足をからませ、山に登っていく。
一方、『大蛸』騒ぎの元凶となった弘瀬村では、城下の様子を知らない安吾が札の場を睨んでいた。
捲られてない札 ※二体未発現
『雲の図案』
『雲の図案』
『雲の図案』
『雲の図案』
『雲の図案』
『雲の図案』
『雲の図案』
新兵衛が捲った札
『刀鬼』(化物発現中)
『鞍馬天狗』(化物発現中)
たえが捲った札
『月読』(単体、この遊びの支配者)
『大蛸』(化物発現中)
未だ開いていない札は七つ。現れていない化物の札は二組の計四枚。つまり残りの三枚のうちどれかを引ければ発現している化物の一体を消すことができる。七枚のうちそれはほぼ四割である。難しくない。いや、だからこそ失敗は許されない。
発現している三枚の中でも、安吾はどうしても『鞍馬天狗』を引き当てたかった。新兵衛は二体の化物の中にいてほぼ対等に戦っていたが、いかんせん生身の人間である。すでに返り血か、己の血か分からないくらい全身が真っ赤に染まっていた。
小松さんを助けたい。その一念で安吾は、札を捲った。




