第62話 『鞍馬天狗』
無造作に近づいてくる新兵衛に、五十嵐幾之助や望月清平の時のように鞍馬天狗は眼力を発した。それを新兵衛はちらりと目線を流すようにして、あたかも太刀筋を捌くように鞍馬天狗の眼力に対処する。
戦闘狂としてはかえって嬉しかったのだろう、鞍馬天狗はニヤっと不敵な笑みを見せると黄金造りの鞘から太刀を抜いた。
それに呼応して新兵衛も太刀を抜いた。やってやる! そう思うと今までにないほど己の太刀に念が込められているのが分かった。新兵衛は一気に間合いを詰めると一子相伝の型を披露した。
貞恒布木
恵納頌火
賛重調土
応成羅金
雨献糸水
これが小松家に伝わる五つの型である。『鞍馬刀法』は先に紹介した通り、念術と言った。事実、新兵衛は牛鬼と戦った折、鞘に気を溜め、太刀に力を与えた。しかし、それは下法である。
本来、『鞍馬刀法』は、その成立ちから戦場でその真価を発揮した。新兵衛がやったように敵の前で端座して気を練っていては、戦場では勝利を掴むどころか生き残るのもおぼつかない。
真の方法がある。それがこの五つの型なのだ。一句一句それぞれ独立しているが、実はそうではない。一巡するごとに太刀に気力が上乗せられていく。太刀を振るえば振るうほど刃こぼれしていくはずのそれが、切れ味を増していくという寸法なのだ。
それだけでない。身体能力も上がっていく。綿密に計算された動きとそれに合わせた呼吸で、丹田で良質な気が練られ、体内の隅々にまでそれが次々と送られるという。つまり、戦うほどに神がかっていく。その五つの型を新兵衛は、瞬く間に出し切った。体中に力がみなぎっていくのが分かる。当然のことながらそこから繰り出される掌術も眼術も威力を増す。ただし、新兵衛はその両方をまだ会得していない。
二巡目になったその途中で、捌いていただけの鞍馬天狗が一転、攻撃を加えてきた。『貞恒布木』から『恵納頌火』に移ろうとした矢先のことである。放ってきた技は『雨献糸水』。
戦場では無敵に見えたこれにも弱点がある。その名のとおり、この型は自然界の成り立ちを示した古代中国の五行説になぞらえている。木は火に力を与え、火は灰から土を創り、土は金属を生じさせる。一方で木は土から養分を吸い取りその力を奪い取り、土は水を堰き止めたり、吸いとったりする。前者を相生といい、後者を相剋という。
まさに鞍馬天狗が放ってきたのは『雨献糸水』であり、新兵衛の『恵納頌火』を打ち消したのだ。それから攻防入れ替わった形となり、新兵衛は捌きに廻った。
鞍馬天狗は『貞恒布木』を繰り出し、『恵納頌火』へとつなげる。五つの型を順に繰り出すその太刀筋は、なめらかで流れるようである。型と型の間に生じる動きに矛盾がない。
なぜか。
新兵衛は追いつめられると後ろに下がった。鞍馬天狗は蓮台の上から動かないのだ。それをいいことに体勢を整えるとまたかかっていく。
鞍馬天狗が放つ型は、型であってそうではなかった。それでも新兵衛は、それはあの型、これはこの型と目を皿にして太刀筋を追う。
過去ずっと、繰り返し繰り返し修練する中で、新兵衛は型に寸分たりとも狂いがないように心を配った。それが間違いであった。今にして思うのである。己は型に使われていたのかもしれない。家伝を研鑽することが唯一の楽しみであり、それ以外は目もくれなかった。そもそもが人嫌いなのだ。型に使われているという発想なぞ毛頭なかったし、内に籠ってそればかりをやっていたのに満足していた。
しかし、なんとも鞍馬天狗の太刀筋は生き生きしていることか。家伝をよりどころにするあまり、わしは己の太刀筋をしばっていたのかもしれない。
そう思うと口惜しい。防備一辺倒から一転。反撃を開始した。その猛烈にかかってくる新兵衛の様子に鞍馬天狗も楽しんでいるかのようで、互いの剣はまるでじゃれ合うようであり、あるいは言葉を交わすようであった。
それも厭きたのか、鞍馬天狗は新兵衛に蹴りを食らわせた。結界を破って舞い降りてきた時の、あの蹴りである。新兵衛の体は宙を舞い、また意識を飛ばしてしまう。そして、地べたに這いつくばって思うのである。これは念のこもった蹴り。さっきのあれとは格段に違う。五つの型の効力は半端ではなく、事実、新兵衛は大量の血反吐を地面にまき散らしていた。それからなんとか立ち上がったものの、鞍馬天狗はまだ蓮台の上から一歩も動いていない。太刀を鞘に収め、手を差出し、来いという手振りを見せていた。




