第60話 そうもうくっき
乾退助が言った。
「まて、唯八。御仁は誤解なされている。倒幕が大事ではない。諸外国の侵略に対抗するために挙国態勢を築こうというのだ。それには、民衆にとって新たな価値観が必要だ。侍におんぶにだっこではいけないし、民衆が奮い立つのを抑えるようでもいけない。メリケンのようにフリーダムを唱える国家。平等な機会を与える国家。国防の体系。幕府ではなく侍が不必要となっただけだよ」
大石弥太郎が言った。
「いや、違う。この国は天皇という支柱によって民族の体をなさなければならない。なぜならばそれが本来の姿だからだ。それを幕府が邪魔している」
うーむと唸った空心。「御高説、ありがたく頂戴した。なぁに、深い意味はない。気に召さるな。かの吉田松陰殿が唱えたという『草莽崛起』に興味があって訊いてみただけじゃ。それに触発され、いまや押しも押されぬ皆様方に会えるなんてこと、金輪際ないからの」
この国の危機を救うべく早くから活動した憂国の思想家が吉田松陰である。尊皇攘夷はこの男に端を発したといっていい。その吉田が掲げた『草莽崛起』とは、古い権力者では改革はできない、民間の志高い者が立たなくてはならないという意で、草莽は『孟子』において隠者を指し、崛起は一斉に立ち上がるということなのだ。さらに空心が続ける。
「それにしても残念じゃ。ここに武市殿がいたなら、どんなに心強かったか。なんでも、ご家族が介錯を務めたというではないか」
その場が凍った。言ってはならないことであった。島村寿太郎と小笠原保馬の雰囲気が変わったのに皆が戦慄を覚えた。
それを尻目に、にやりと笑った空心は、ぱんぱんと手を叩く。「どうじゃ、雑談で気分が一新したであろ。さぁ、再開じゃ」
一新どころかむしろ、後退である。新兵衛に限って言えば、思い出されるのは龍馬からの手紙である。書いてあったことは、大まかには乾と同じであった。ならば間違いなく、侍の時代は終わる。終わるが、それはどおってことはない。己の代で家伝『鞍馬刀法』も幕引きにしようと考えていたのも確かだ。
だが正直、複雑な気分であった。誰とも水が合わずひとり過ごす時、『鞍馬刀法』はいつもそばにいてくれた。山に籠って修行した時も寂しくはなかった。新兵衛にとって剣術とは戦う技術ではなく、話し相手だったのかもしれない。それが失われると言うのだ。そんなの、疾うに分かっていたはずだった。だが、すうっと血の気が引いてゆく。
なぜ? 皆はなぜ、わしのもとを去っていく。いつかわしはほんとうにひとりぼっちになってしまう。
そんなことを考えている新兵衛の様が周囲を不安にさせた。おどおどしていて、心ここにあらずなのだ。それが札を引こうとしている。だが、誰も止められなかった。あっ、と思っているうちに新兵衛が無造作に、そして、いとも簡単にひょいっと札を取ってしまっていた。
弁慶のような僧と『刀鬼』
皆、胸をなでおろした。やはり、今日の新兵衛はついている。『刀鬼』は知らない相手ではない。しかも、結界を通ることは出来ないのだ。とはいえ、呆けている新兵衛がその片割れの『刀鬼』を引くのは難しい。それでも、もしそれをやってのけたとしたらどうだろう。もうバカにはしない。心に誓う。
そんな皆の期待をよそに新兵衛はさらに札を捲る。
牛若丸のような美青年と『鞍馬天狗』
がっくりとはしなかった。そこまでうまくはいかないかとだれもが思ったし、絵の感じから『刀鬼』と同じたぐいだと想像出来た。そして、単語にあるのは天狗。ならば結界への侵入はない。
果たして『刀鬼』が結界の外で実体化したかと思うと一途に向かってくる。その『刀鬼』と向かい合う形で結界の反対側に大口袴に直垂姿、黄金造りの太刀を帯びた男も現れた。薄化粧で髪は高く結いあげられている。
刀が欲しい『刀鬼』はというと、突進し、結界にぶつかった。それでもめげない。前傾姿勢をとり、足を交互に進ませ、足の裏で大地を削る。不気味なのは、『刀鬼』が前進を繰り返すその真反対で平然と辺りをうかがっている『鞍馬天狗』。
やることなすこと一辺倒の馬鹿ではないのかもしれない。滅多矢鱈に向かっても来ないし、かといって、どこかに行ってしまう風でもない。目の前に繰り広げられた光景に興味があるとでもいうのか、刀鬼、土佐藩兵、蓮台と札、そして、高野僧とぐるりと視線を巡らし、最後に視線を向けたのが中空。それは結界を見ているに相違なく、明らかにおのが置かれた状況を把握しようと努めている。そのうえで、一筋縄ではいかない、いや、見るからにとんでもないことを仕掛けてきそうな、そんなたたずまいを醸し出していた。
やつには高等な知能が備わっている。だが、そんなことがあっていいのだろうか。化物は単純一途のはず。弥太郎が言った。
「院主!」
刀鬼は太刀の強奪、牛鬼は人の肝、大百足は大食漢。で、鞍馬天狗は? もしやつが、故意に札を捲るのを邪魔する役目とかであったら? これは札を捲って化物を倒す『遊び』なのだ。そんな役目のものがいたっておかしくはない。だが、そんなのはおかしい。許されん。不当だ。公正さを欠く。
空心! 空心は、やつを知っているはず。弥太郎は言った。
「やつぁぁぁ一体、なんなんだっ!」




