第6話 臆病者
七発目を撃ち終わった藩兵が銃を投げ捨てて転げるように退散していく。唖然とし、それを見送った黒山の人だかりは水を打ったように静まりかえった。幾之助らも固唾を呑んで小高坂側を見守る。
果たして大きな影が町家の向こうから姿を現す。丈は軒よりも高く、のっしのっしと歩くその男は、血まみれの僧服をまとってはいるものの、全くの無傷である。あれだけの銃弾をくらったはずなのだ。甲冑次の言うことは疑うべくもない。そして、その破戒僧は庄屋に聞いたのと同じように大薙刀を肩に傾けて歩いている。進むにつれてその巨大な刀身が町家の影からあらわになっていく。幾之助も清平も血の気が引いた。
ふと、この時、藩兵が逃げ去って誰もいない橋の中央に、男の姿があった。藩兵と入れ替わる形でそこに入ってきたのであろう。親指で太刀の鍔を押上げ、低い態勢をとっている。
「ありゃぁ、新兵衛じゃないか」
ほとんど驚く声で幾之助がそう言うと清平はうなずいた。小松新兵衛は下士の間では疾うに忘れられた存在であった。
投獄された半平太らを救うため城下の下士が集まったことがある。なんとか救い出さんとみな、躍起になっていた。ところがその時でさえ新兵衛は姿を現さなかった。大体の事情は飲み込めている。腑抜けとか臆病者とかそしる者もあったが、事情を抱え身動きが取れない者はまだ他にもいる。新兵衛ばかりを責めてもしかたなかったし、その暇もなかった。
新兵衛の小松家は、長宗我部にほふられた土佐一條家家老の家来筋にあたり、京八流と言われる古武術を一子相伝する家柄でもあった。その一條家は、摂政関白が選ばれる五摂家の一つで、その諸丈夫を勤めていたのが源康政という人物である。その男が京から土佐に附家老として送り込まれることとなり、その随身である小松家も付き従ったとされる。
ところが土佐が長宗我部に征服される憂き目にあう。それからずっと浪人していたものの、土佐の支配者が山内家にかわり、小松家はそこでやっと日の目を見る。野中兼山に取り立てられたのだ。
なんせこの野中には敵が多い。藩の財政を回復させたにもかかわらず、半農半兵の豪族や長宗我部の臣を取り立てたために他の上士らから恨まれていた。その上士らにとって、小松家の剣は驚異である。野中を暗殺しようにも、おいそれとは出来ない。それであの手この手で弾劾し、野中を失脚させた。と同時に小松家は上士から下士に格下げとなった。いや、取り立てられた時分から上士という扱いであったかどうかは疑問である。野中の私兵のようであったし、元が浪人で、野中の奨めで幾らばかりかの新田を開いていたことが藩の扱いを自然とそうさせた。
そういう事情があって当然、半平太や龍馬は小松家が皇室の復興を志す意味を十分理解していたし、新兵衛自らそうするだろうと考えていた。ところが、真実は真逆である。国事に奔走しようという半平太の呼びかけには答えなかった。
小松家はずっと敗者のままだった。武芸が劣っていたわけでなく政治に負けたのだ。そして、その恐ろしさを誰よりもよく知っていた。と、指摘したのは半平太である。家訓のごときものがあるに違いない。呼びかけに応じないのはきっとそういうことなのだろうと言うのだ。
龍馬はというと、諦めはしない。返事が来なくても神戸から長崎から再三再四、新兵衛に手紙を送った。半平太が呼びかけた時は新兵衛の父がまだ生きていた。いまは違うというのだ。幼馴染であったから気心も知れたし、欲悪な計算ではあったが小松家は、龍馬の本家才谷屋に借財があった。弱みに付け込むのは心苦しいがそれがきっかけとなるならば、それはそれで方便というもの。龍馬は新兵衛のためを思っていた。
ところが、新兵衛はもう一つ問題を抱えていた。妻のゆきである。小松家は家伝を秘しているため、親戚を持つのを嫌った。代々、小松家に入る女のほとんどが、郷士株を手放した地下浪人という身分の娘で、嫁を貰うとはいうけれども小松家はその言葉どおり本当に貰ってきていた。
そのゆきが病弱であった。現代で知られる気胸という肺に穴が空く病気で、命には別状がないのだが、ゆきの場合、子宮内膜が子宮外で増殖する子宮内膜症が原因であった。
子宮内膜組織が肺に移り、月経とともに肺の組織を剥がしてしまい、咳が出、胸の痛みを覚える。十日ほどでそれは治るのだが、ひと月経つとまた再発する。それだけではない。この病気は不妊症を合併する。
この時代、そうとは分からずゆきの様子から、子は出来ないどころかいつ逝ってもおかしくないと誰もが思っていた。実際、何人かは新兵衛に離縁を勧めたと言う。が、それでも新兵衛は、ゆきと別れはしなかった。
清平が言った。
「橋を渡ったらすぐ新兵衛の家なんだ」