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第50話 しめき


 今現在の己がなくなるほどの価値。それが見つけられるのはたえと安吾、加えて大石弥太郎だろうか。前者の二人は分からぬでもない。が、弥太郎という男をいえば、どこにいても、どの弥太郎をとってみても勤皇なのだ。天にあだ名す輩はこの身がどうなろうと許さない。


 一方で乾はというと、良く分からない。別にどうのこうのもなく淡々としている。ただ、闘志を内に秘めるたぐいの男である。心の内では『札合わせ』に怒りという感情が湧いているのかもしれない。乾という男を例えるなら正義漢とでもいうおうか。長年の付き合いの小笠原唯八なぞはそんな乾の性格をよく知っているし、一緒に行動すれば最後はどのような結果になろうとも清々しい思いが待っているのも知っている。田辺豪次郎とてそうだ。付き合いは長くはない。それでも分かる人は分かる。唯八の弟の謙吉もいうなれば豪次郎とおんなじなのだろう。


 だが、新兵衛は男が男に惚れるなんてそんな手合いでは、全くない。たえや安吾が望むのなら、そして、それが出来得るのであれば世界なぞなくしてしまえばいいと思っている。この世界を言っているのではない。本当の世界を含めてそう思っている。ともかくも人が嫌いなのだ。それでも、そんな新兵衛のために生きている人、そんな奇矯な人物がいるのも事実である。


 妻のゆきが言った。


「あなたさまはわたしの最後を看取りその墓の前でお友達に殉じようと、お腹を切ろうと思っておいでなのです。そうすれば全てが丸く収まるとお考でしょう。あなたさまがお友達を見捨てるはずはありません。違いますか?」


 それは違うよと新兵衛は思っている。この文句はゆきの気持ちの現れなのだ。ゆきこそ、新兵衛が死んだら頚動脈を掻ききって死のうとしている。そして、そんなことをいつも考えているんだとその言葉の裏を読んだ新兵衛は身につまされる。


 だれがこんなつまらない世にした?


 だから新兵衛は、どちらの世界にしろ、世界と名をつくものをたえや安吾が壊そうというならそれで結構。気分が晴れるし、それが二人のためなのだ。


 いずれにせよ、どの世界も狂っている。


 こうなって、逆に存在感を出しているのが島村寿太郎と小笠原保馬である。寿太郎は半平太の妻側の一族でその本家筋。保馬は半平太側の一族で甥。この二人は半平太の切腹時、介錯を務めた。いや、藩にやらされた。以来、二人は笑ったことはなかったし、寿太郎は死んだ目となり、保馬は顔面神経痛を患った。二人ともその表情から何も読み取れなかったのだ。普段なら不気味に見えるふたりだが、かえってそれがいまは、二人を豪胆に見せていた。


 その一方で、恐れをあらわにしている者たちもいる。河野万寿弥こうのますや、小畑孫次郎、森田金三郎の三人で、そろいもそろって牢獄での地獄を思い出していた。


 土佐藩での拷問は伝統的に搾木しめきと言われる大掛かりな装置が使われる。原理は酒造などで酒から酒粕や雑味を絞り取るために用いられる木槽天秤搾ぶねてんびんしぼりと一緒である。棒の一端を支点にし、一方の先には重石をぶら下げる。当然、棒の中間には下への力がかかる。その力を利用して足を締め上げる。


 やり方はこうだ。三角の材木を並べ、その上に足を置く。それを挟み込むように上からも、洗濯板を凶暴にしたようなキザキザの板を乗せる。そこに天秤絞り器で上から圧力を加える。拷問をかける側にとってなんと労力のいらないことか。しかも、それを行うのは無慈悲で、疲れることの知らない重石であり、装置なのだ。心的外傷を負わせるにも十分効果があった。河野万寿弥こうのますやも、小畑孫次郎も、森田金三郎も三人がさんにんとも札が造ったこの世界と、搾木しめきが鎮座する拷問部屋が重なって思えたのは致し方ない。


 拷問部屋に入れられた時の恐怖感。感情とか通り越して直接本能が叫びをあげる。あの時、己の運命を呪った。あがくだけあがいて死ぬ。腹を切って逝くこともできない。この状況がそんな想いと重なってきて、それでも、まだ砕けそうな心を必死に保ち、かわいそうに万寿弥、孫次郎、金三郎の三人は今度もそれと立ち向かわなくてはならない。


 残りの者たち、望月清平、五十嵐幾之助、池知退蔵、森助太郎、上田楠次、阿部多司馬の六人はというと、成り行きに任せるままである。つまり、ぴんと来ないのだ。戦って死ぬでもなく、なにかそれと似た感じのことが身の回りで起こったことがない。当然と言えば当然だが、この不安というか、胸糞悪いというか、それを使命感とかなにかに目先をかえることが、だから出来ない。


 とどのつまり彼らの思考はこうだ。『遊び』を終わらせ、この世界を消したとしよう、それがなんの名誉となるのか。名を残すとか、生きた証にもなんにもならないではないか。札が造ったこの世界は無かったことになるのである。そして、本当の世界はこの世界のことは知らない。その一方で、間違いなく向こうの世界の己は国事に奔走している。倒幕という大業、そして、皇政復古という壮挙。どういう訳か他人ごとになってしまったが、それを思うと、この期に及んで向こうの己に嫉妬してしまう。


 そんな別世界の己への想いに、清平ら六人はこころの整理もままならず、戸惑っている。ノコギリと遊んでいる清平とつるんでいる幾之助はいざしらず、池知退蔵ら四人は笑えるとか、腹が立つとか、感情の反応にどう対処していいか、まごついている。そして、それを押し隠すように冷静さを装うとしている。


 見た目、その冷静さが板についていない。なんのためにそうしているかも、もう定かではないのだろう。だから装っているはずの冷静さは、いまはほしくない清平の行動も相まって、冷たい視線へと変わってしまう。


 ばらばらな感情が絡み合う中で、討伐隊は浮足立っているといえよう。もはや一番隊も二番隊もなく、上士も下士もない。乾というたがが辛うじて彼らを繋ぎとめている。


 その乾が突然、手を止めろと言う。その視線が指す先、濁流が造った岩の群脈を僧の一団が跳ね降りてきていた。


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