第48話 こよみ
カギは『月読』の札にあった。そこには忌々しい化物の絵はなく、月の満ち欠けの図が記してあるだけで明らかに他と一線を画す。さらには総数が二十一であることから、最後にこの札が残るのは想像に難くない。そして、連日の新月である。そこから『月読』がこの『遊び』を支配しているのがうかがい知れる。
その『月読』の支配が解かれるならば、どうなるのだろうか。あの図はなにを示しているのか。連想するのは時間である。雨が吸い込まれていったように、あるいは濁流が吸い込まれていったように、時間が吸い込まれていくのではなかろうか。つまりここは『月読』が造った時間空間の中なのだ。そして、『月読』に化物の描かれていない理由もそこにある。珍しく乾は熱弁を振るい、こう付け加えた。
「分かりやすく言うと、皆が蘇るわけではなく十二月六日の弘瀬君と西森君が桐の箱を開けたあの時点に時が戻るということだ」
と、言い切ったはいいが、その傍から乾の頭に新たな疑問が湧いてきた。それならば、何が起こるか知らない十二月六日の弘瀬君が、また桐の箱を開けるということも有り得る。堂々巡りになってしまうではないか。おそらくは、『遊んでいる者』だけ記憶が残されるのであろう。だがそれは、弘瀬君や西森君にとって好ましいことなのだろうか。
たえはというと、手放しで喜んでいる。疲れきった老婆はどこえやら十五六の娘の顔である。生気に満ちた光り輝く笑顔。その様子に安吾はほっとしたのか、張り詰めた緊張を解いて放心している。
それはそうだ。一時は死を覚悟したのである。いや、すべてが終われば死ぬ気だった。拳銃に玉が一発残されている。状況が許されるのならば、それで死にたい、とまで安吾は考えていた。だから、肝が座っていたし、うわばみも大百足も怖くはなかった。
その二人を前にして、乾は言葉をためらった。言うのをよそう、と心に決めた。
大石弥太郎が言った。
「乾さんの推測が正しいとしてこの時点のわしらはどうなるんだ」
さすが大石君、と思いつつ乾は言った。「なかったことになるな」
「ただ、それだけのことか?」
「これは夢でも幻でもなく現実だ。死ねば痛いし、たぶんだが、宇内は二つに分かれたんだろうな。木の枝が二つに分かれていくように正常な時間の宇内とこっちとで。それで『遊び』が終われば、枝を切り落とすようにこっちは切り取られ、宇内ごと桐の箱の中に消える。たぶん、だがな」
五十嵐幾之助と望月清平は七日、監察府から帰ってきた時のことを思い出す。あの時、幾之助は長年住んでいる家を見て、自分の家か? と疑問を持った。
それだけでない。妙な胸騒ぎである。あれは世界が分かれてしまったことに対する反応であった。知らず知らずに置かれた状況を本能的に感じ取っていたのだろう。幾之助と清平は二人して、あれはそういうことなのかと納得したし、乾さんも同じ様な感覚を受けていたのか、と今更ながら驚く。
だが一方で、疑問も湧く。本当にそんなことがあっていいものなのだろうか。なかったことになると聞かされてもなお喜んでいるたえや安吾は別として、大人は信じられない思いである。正直、受け入れ難い。だれもが戸惑いを隠せなかった。弥太郎が言った。
「例えばだ、終わらなかったらどうなるんだ? 乾さん」
「君はこのままにしとくと言うのか?」
そう言われれば身も蓋もない。だが、気になるところなのは確かだ。乾の挑戦的な物言いに、弥太郎はかっとして答える。
「バカを言ってはいけない、乾さん。われらは勤皇の名の元に生きている。これは帝にあだなす重大事だ。捨て置くはずもなかろう」
ふふっと乾は笑った。「諸君、大石君の言うとおりだ。我々は命を賭して掛からなければならん。それも援軍は頼まず我々の手で」
どの顔も引きしまった。乾ならそう言うだろうと思っていたし、このあり様では軍隊なぞものの役に立たないどころか足を引っ張られかねない。少数精鋭でいくべきだし、おのおのがそれに耐えうる自負もあった。
「とはいえ大石君の問に答えるならば、月に満ち欠けがないんだ。毎日は繰り返される。人の造った暦は進むが、ここではいつまでたっても春は来ない」
夏も来なければ冬も来ないというわけなのだ。つまりこの世界は、行く行くは干上がってしまう。
小笠原唯八が言った。
「諸君。それについて一つ問題がある」
何を言わんとしているのか察した乾は、唯八の物言いでいざこざが起きないよう先手を打った。自らの口で、『遊ぶ』順番が分からない今の状況を弥太郎ら後からきた者たちに説明したのだ。そして、こう付け加えた。
「全くのお手上げだ」
乾にしては珍しいと誰もが思ったし、あの乾がそう言うからにはそうなのだろうと肩を落とす。
「とにかく、今夜はゆっくり休もう。寝ればいい考えが浮かぶかもしれんしな」
傾斜した本堂の床に寝そべった乾は、腕枕でもう寝入ってしまった。仕方ないと、討伐隊は次々それに続く。
安心したにしろ、たえも安吾も疲れたのだろう、横になるとすぐに寝息を立てた。寒いのか、たえがむにゃむにゃと寝言を言って安吾にくっつく。新兵衛は微笑ましく思い、上着を脱ぐとふたりに掛けてやった。
化物もすべて消え、束の間の休息だった。今日この時点、討伐隊で生き残れた者は以下の通りである。
司令 乾退助
大軍監 小笠原唯八
一番隊
隊長 大石弥太郎
隊員 森助太郎
五十嵐幾之介 二番隊より合流
島村寿太郎 二番隊より合流
小笠原保馬 二番隊より合流
二番隊 欠番
三番隊
隊長 池知退蔵
隊員 小畑孫次郎
河野万寿弥
阿部多司馬
四番隊
隊長 望月清平
隊員 無し
五番隊
隊長 田辺豪次郎
隊員 小笠原謙吉
森田金三郎
上田楠次
伝令 小松新兵衛




