第46話 土石流
落ちる、と思ったその瞬間、幸運にもガツンと岩にぶつかった。先端を岩に食い込ませ、いかだと化した本堂はなんとかそこで止まっている。濁流はというと、岩を挟んで左右に別れ、勢い良く、大地を蹴って宙に舞う。
「岩に移れ!」
乾の怒号に、早速皆が力を合わせ雨で滑る岩肌を、まずはたえ、次に安吾、と順に岩へ押し上げた。それから謙吉が続き、乾、唯八、豪次郎、新兵衛の四人はほとんど同時に這いあがった。
岩に乗ってみると、そこから見下ろす谷底はぞっとするってもんじゃぁない。濁流が一旦宙に飛び出し、弧を描いて落下、谷間を走る別の濁流に合流する。その滝壺は、爆発を繰り返す火山の火口のようなものだった。時折、巨大な岩が炸裂し、四方八方に岩の破片を飛び散らせる。木なぞ柔い物は悲惨である。細かく粉砕され、影も形も無くなった。
一方で、足元の岩はびくともしていない。新兵衛らが立つそこは、岩全体のほんの一部なのかもしれない。おそらくは、ほとんどの部分が土に埋もれているのであろう。
取り敢えず、取り敢えずだが、新兵衛はほっとした。といっても、あの札はまだ濁流に浮く床の上にある。そこへ行って札を引かなければならない。
歩いて七八歩のところ。だが、行けとは、たえに言えない。それはそうだ。時折、底から岩で突き上げられるのか、ガツンとケツを上げる。歩いている最中にそれが起こったなら、十中八九、濁流に投げ出されてしまう。
雨が止むのをを待つしかないと新兵衛は思ってはみたがその端から、いいや、だめだともう一人の自分が言う。この濁流は間違いなく自宅を襲う。城下の江ノ口川沿いに家があり、それとこことは繋がっている。
イチかバチか。たえを背負ってあそこまでいく。
札が広がる場は目と鼻の先にあるのだ。決断したそこへ、新兵衛の袖を引く安吾。それが指差している。
ボロボロになったうわばみのあたまが、濁流に押しやられ、岩の袂にある。銃弾を跳ね返すほどの硬い鱗が所々剥がれていて、そこから露出した赤い肉と白い骨とがうわばみをマダラ模様にしている。しかも、その頭はまるで強風に煽られた吹流しのように赤茶けた水の中でばたばたと揺れている。復活の間を与えない、そんな勢いで流されてくる木や岩に、うわばみの遺骸は潰されてゆく。
だが、安吾が言いたいのはそういうことではない。時折流れ来る木やら岩やらの大物がうわばみを道連れにせんと滝壺へ引っ張っていく。そして、その度毎に本堂の柱がめきめきと軋み音を上げている。
うわばみは『の』の字に本堂に巻きついている。胴の内円には数本の柱があり、まさにそのために『の』の字を書く状態になっているのだが、頭が引っ張られれば引っ張られるほどその円周はどんどん縮まっていく。当然、いずれ柱は全て倒れ、それに伴って床は木片に変わって滝壺へ落下していくのだろう。となれば未来永劫、札は見つけられない。安吾が言いたかったのはそれなのだ。
確かにそれは最も忌むべき結末であると言えた。いますぐ札のところへいって全て捲って終わらせるか? だが、状況から鑑みて、それは絶対に不可能だ。乾もそんなことは疾うに分かっていたはずだ。すでに覚悟を決めたようである。切腹するのだろうな、と新兵衛は思った。乾は目をつぶって口をぐっと閉じている。
不意に、安吾が岩から飛んだ。そして、本堂に着地するや否や、柱や梁を跨いだり潜ったりして札の場に駆け寄ると桐の箱を掴み、一方の手を札に伸ばした。死を賭して札をかき集めようというのだ。
とはいえ、それは無謀と言わざるを得ない。池田陽三郎が雷に撃たれたのだ。それでも安吾は札を集め、岩に戻ってこようとしていた。
なぜか?
たえは想像する。安吾は箱を自分が拾ってこなければこんなことにならなかったと思っている。もし、別のだれかが箱を拾ったとして、その存在を知らない安吾や自分が『牛鬼』に襲われたとしても、自分たちは被害者であり、加害者側にはならなかった。
「ごめんね、安吾」
そう言いつつもたえは、そんな安吾を呆然と見送る。一方で新兵衛はというと、反射的に、札を拾おうとする安吾を追った。いくら己の家が潰されようとも、ゆきに危険が及ぼうとも、安吾にそんなことはさせられない。安吾が札に手を触れようとする寸前、安吾に向けて飛ぶ。
が、間に合わなかった。もう安吾は札を拾っていた。新兵衛に抱きかかえられ、その手にある札は二枚。それがどういう訳か、逃げるように手から飛んだかと思うと桐の箱の中に収まっていく。
それだけでない。
他の札もそれにならって次々と箱に飛び入ったかと思うとそこから竜巻が起こる。そして、その渦がうわばみを吸い込み、濁流を吸い込み、それこそ服をずぶ濡れにした水までも箱は残さなかった。さらには、鏡村で縛り上げられた牛鬼も、九尾も、雷神も、大百足も遠くから飛んできて、まるで飴が引き伸ばされたように細く長くなった挙句、何本の筋となって桐の箱へ消えていった。




