第39話 高い壁
大石弥太郎は乾を見た。普通に考えたらお互いやれない喧嘩だった。不可抗力で斬ってしまったとか、出会い頭にやってしまったのならまだしも、こうも間をおいてしまってはどうしようもない。乾はそのことをハナから理解している。太刀を抜かず、沈静化するのを待っている風であった。小賢しいが、相手の方が一枚上手と認めざるを得ない。あとはどうやって太刀を収めるかだが、弥太郎自身、皆目見当がつかない。
その気持ちを汲むように、安岡覚之助が言った。「乾さんも乾さんだ」
突然話を振られて驚いたのだろう、乾はキョトンとしている。安岡が続ける。
「あんた、そんな嫌味なやつじゃなかったろ」
土佐には上級士族の子弟が地域でつくる団体があちこちにある。それを総称して盛組といい、藩校帰りにそれぞれが各々の組に集まり、武術の稽古、書籍の会読、流行り遊びをするのが土佐での習いだった。
城下には、至るところに土俵がつくられていた。各組の溜まり場となるのだが、そこが時には組どうしの対立、柔弱者や掟破りへの制裁などの場となった。盛組の組長はというと、身分や年齢、見識、人格と関係なくただ単純に腕力で決まった。ガキ大将そのもので、御多分に漏れず乾は十五六人仕切っていた。
その乾のやることというのが滅茶苦茶で、一つ例を挙げれば敵の土俵を破壊して平地にしてしまう。で、とどのつまり、『不作法の挙動』という罪状で藩庁から処分が下された。城下への出入り禁止である。
「誤解しているね。君たちの知っている僕はやるときは徹底してやる、そう、土佐の鏡みたいに思ってるんだろう? 間違っちゃぁいないけど、普段はこんなもんさ。だから、喧嘩を吹っ掛けられる。初めは相手にしないよ。そりゃそうだ。僕の言いようが悪いから。この僕にも原因があるんだ。けどね、相手も調子に乗って一線を越えたらいたしかたない。上も下も関係ないよ。そんときは完膚なきまで叩き潰す。ただそれだけだ」
皆、ぞっとした。乾は嘘を言っていないとだれもが思った。この男が土佐勤皇党弾圧に消極的だったことを、今になって胸をなで下ろす。その乾が続ける。
「なぁに、大石君は僕の友だし、その大石君が他の友を傷つけたわけでもなし。それに大石君はそんな事をやろうとする男ではない。始めっから、僕は戦う気なぞないんだよ」
太刀を抜かず、腕を組んだままでいた訳が分かる。が、しかし、この男を怒らせればどうなるのか。実際、やられた友の報復に盛組一つ崩壊させた。土佐に危害を加える藩があるならば、それ式にその藩を攻め取るだろう。日ノ本に襲いかかろうとする外国があればさもありなん。尊皇攘夷。乾の思考は意外と単純なのかもしれない。
大石弥太郎はというと、いままさに肩透かしを食らった。宙に浮いた感さえした。一体、自分はなんなのか。土佐最高の国学者、鹿持雅澄に学び、土佐勤皇党の盟約文を起草したという自負が音を立てて崩れていく。怒りが沸々を湧いてきた。独りよがりで騒いだ己の方がどう見たってあほうに見える。勤皇とはどういうことか、尊皇とはどういう意味か、説いて回ったこの大石弥太郎が、今まさに全否定されている。許せない。
そんな大石弥太郎を察してか、安岡覚之助が言った。
「弥太郎さんの怒りは尤もだ。されど色んなことを差っ引いて、わしらは乾さんらの運動で獄から出ることができた、乾さんは地獄から救ってくれた恩人の一人なんじゃ」
そう言って弥太郎側を見た。
「そうだろ、万寿弥」
乾側を見た。
「なぁ、金三郎」
安岡が傍らに目をやる。
「孫次郎さんも」
弥太郎側に立つ河野万寿弥、乾側の森田金三郎、そして、中立の小畑孫次郎と、三つの集団に呼びかける形で安岡覚之助は言った。この三人は安岡自身を含めて、奇跡的に拷問苦から生還した者たちなのだ。安岡は言った。
「大石さん、ここは我らに免じて太刀を収めてもらえぬか」
『東郡の安岡覚之助、西郡の樋口真吉』 これは大石弥太郎の人物評である。己が認めた安岡にこうまで言わせてしまったのだ。
「すまぬ」と潔く、弥太郎は自分の非を認めた。弥太郎の太刀が鞘に収まると物騒に光る幾つもの白刃も一斉にチンッと音を立てて本堂から全て、姿を消した。
このことで、誰もがよくよく理解した。乾は攘夷なのだ。そして、弥太郎は勤皇。どちらも、藩の親徳川派閥という高い壁を前に、ふん詰っていた。打ち壊さなければいずれ圧死してしまう。少なくとも弥太郎はそう思っていた。やはり、ここは折れるしかない。とりあえずは、乾に付いて行こう。




