第37話 勝敗
反射的に、新兵衛は乾を見た。その乾はというと、腕を組んで『月読』と書かれた札を見つめるばかりで新兵衛とは目を合わせようとしない。だが、察しているはずだ。月がおかしいと指摘したのはだれだったか。
きっと乾は、この『遊び』の“決まり”を警戒しているのだろう。そもそも、決まりなんてものがなんなのか、そしてそれがいくつあるのか、断然としていない。はっきりしたのは『遊んでいる者』以外が札に触れると罰が与えられるということ。その場合の罰は雷に撃たれるということなのだが、池田陽三郎を例に取ると、一枚捲った新兵衛がもう一枚引いて順番が終わるところを、その前に陽三郎が札に触れてしまった。
それにもまして、思うことがある。いったいだれがなんのためにこんなものを作ったのか。いや、だれとかではなく神の御業としか思えない。七福神やらあんなのが、宝船かなにかに乗って雲の波をかき分けて進んでいる最中、いい天気だのう、あれでもやって遊ぶかと取り出してくるそれが、わしの目の前にある札なのではないだろうか。毘沙門天なぞはズルして雷に撃たれたとて、『しっぺ』ほどのこともないだろう。いや、それじゃあ言い方が逆だ。雷ぐらいの威力がないことには『バツ』にも何にもならない。きっと雷に撃たれているのを見て、他の神様は膝をたたいて笑っていたのだろう。当の本人はというと、頭を掻いて、あははと照れ笑いをしていたのではあるまいか。
だいたいそれは、天にかかる月の様相も変えてしまう代物なのだ。神が遊んでいたと聞いて笑うなら笑えばいい。そんなやつがいたならば月を指でさしてこう問うてやる。どこのだれが月の満ち欠けを奪ったのかと。まさか本当に、どこそこのだれだれとは間違っても言うまい。きっとご大層にも、なにかの神の名を適当にあげて、最もらしいご説をご披露しなさるだろう。
乾が言った。
「『刀鬼』らは引いてから発現した。理屈を言えばこの札は返される前から力を発現させている。どういう力かはその絵から想像しなければならないが、いまはおいておくとしよう。つまり、『月読』を最後に引いた者がこの『遊び』でいう勝者ということだ」
罰を警戒したのではなく、黙っていたのは乾がそんなことを考えていた。そして新兵衛は、はっとした。ネタばらししてもいいものか。確かに札の数がなぜ奇数なのかもそれで筋が通る。だが、それはネタバラシで『遊び』の決まり違反じゃないか。息を飲んで乾を見る。
「心配ないよ。どうしたら勝ちか、その決まりを言ったまでだ。勝ち負けの決まりは通常、周知される。そうだろ?」
「ということは化物が出ないってことだな」と大石弥太郎。
「ずっと新月だったのに気づかなかったか? それがこの札の効力なのさ」
「新月? なんのために」
さぁ、と小首をかしげる乾。見様によってはその仕草が、ここにいる全員を馬鹿にしているとも取れる。
この二月、大石弥太郎は上士小姓組となり軍備役に抜擢されていた。破格といっていい人事であるが乾と弥太郎はその人物たらん黎明期には同じ頃、同じ江戸にあった。当時、乾は江戸留守居役兼軍備御用であり、弥太郎は洋学修行の藩命を受け勝海舟に航海術を学んでいる。この時に土佐勤皇党が結成されたわけだが、乾はというと、その翌年に龍馬の支援者となる佐々木高行、そして、この場にいる小笠原唯八と、勤皇に尽忠することを誓い合っている。
乾が大監察に抜擢されたことにしてみてもこの年の六月だから、二月に軍備役に抜擢された弥太郎はというと、乾よりいつも時代を先んじているという自負がある。そのうえ歳も七つ八つ年長だから弥太郎は乾に対して先輩風をふかすようなところがあった。
それが、乾には滑稽に思えてならない。元々、身分制度を歯牙にもかけない風の乾だったが、それから抜け出そうとしていた弥太郎の方が上か下かをはっきりさせたいのである。役目の上下は大事だ。それが人間自体の上下とは直接関係ない。むろん、役目が高く人格者ならそれに越したことはない。どうも乾にはそんな弥太郎を、軽く見るきらいが見え隠れする。
一方で、普通に考えたなら下士とって乾は、くみし易いはずだった。一昨日、『刀鬼』が久万村で暴れていた時、たまたま弥太郎は小高坂村に出向いていた。小高坂の顔である田岡祐吾と談合するためであったが、弥太郎はこんなことをしょっちゅうやっている。軍備役という肩書きであちこち勝手に動き回っているのだ。それから言っても弥太郎には、乾を首領だと認める思いがないのは明らかだった。
このようだから二人は、いつもぎくしゃくする。樋口がいたなら間に立とうものだが、樋口に代わるほどの者はここにいるのだろうか。だれもが成り行きに任せるしかなかった。
大石弥太郎が言った。
「乾さん、いい加減な推測でみなを油断させてはいけない。今この間にも、わしらは化物に狙われているかもしれないんだ。なんかあったらどうするんだ? あんたは司令失格だ」
「大石! 口を慎め!」
すぐさま唯八が言った。目を血走らせて睨むと当の本人、弥太郎はふーんとした顔でどこ吹く風である。
と、見せかけて、弥太郎は太刀に手をかけた。
途端、みなが一斉に太刀を抜いた。といっても乾は、腕を組んだまま微動だにしない。
そんな乾を守らんと何人かが弥太郎に立ちはだかるように立つと太刀を構える。一方で、弥太郎と一緒になってやってやろうじゃないか、と思った者らも太刀を抜く。札の場を挟んで両者が対峙した。




