第35話 『九尾』
かつて近江国石部宿で幕吏四人が殺された。主犯は武市半平太で、その呼びかけに応えた者たちが天誅の名のもとに幕吏四人を葬った。この幕吏四人は尊王攘夷派の多くの命を奪った。それが京都奉行所から江戸へ転籍となったというので、その移動を狙ったのだという。その暗殺団の中に山本喜三之進がいた。そして、それがために罪を問われ、獄に繋がれてしまった。
同じく牢中にある半平太にもこの一件への嫌疑がかかっていた。結果的に半平太は切腹したものの、先に紹介したとおり牢番の依田権吉に毒饅頭を頼んだ山本喜三之進はというと、どうにかこうにか拷問に耐え抜き、結審を永牢処分で迎える。そして幸いにも、この九月でそれが解かれた。
しかし、運命とは過酷なものである。一緒に浚われた狐に牙や爪で切り裂かれようとも山本喜三之進は無我夢中に、死の『おしくらまんじゅう』から逃れようとする。そんな必死の努力も水の泡に、蟻地獄に捕まった蟻のごとく大百足の牙に口元まで誘われると脇腹からばりばりとかじられていく。大百足は、これが二度目の食事であり、こまごまとした相手を食べるコツをつかんだようだ。大鎌の牙で強引に挟み込むのではなく、第二小顎と呼ばれる牙も使い、まるで団子をこねるように獲物を丸い塊にすると、慌てず、貪らず、カリカリと順次端から、歯板と呼ばれる下顎と第一小顎で獲物を削るように食べていく。そこに誘われた喜三之進は見る間に胴を失い、挙句、頭と足をひとまとめに食道へと押し込まれていった。
一方で、九尾は黙っていない。我が眷属になにしようか、と怒りをあらわに業火を吐く。大百足はそのズウタイこそ大きいものの、その性は小虫である。絶えず天敵に注意を払い、暗い物陰に身を隠す。彼らの最も恐れたのは鳥、空から飛来するそれであった。そのために空からの攻撃には敏感である。浴びせ掛かる業火に身をひるがえすと、うわばみにまだ飲まれたままになっていた二節、一節を強引に引っこ抜き、猛然と走り出す。それがなにを思ったのか、いや、何も考えてはいないだろう。走り出せる体勢となった時、偶然にも頭が本堂に向いていた。大百足は恐ろしい勢いでこっちに向かってきている。
新兵衛を始め乾らは、ぞっとした。
幾百もある足を波立たせ、触覚を右に左に気ぜわしく地面を叩きながら迫ってくるそれは、感情の欠片もない。目の色を変えるというけれど、深く暗い硝子玉のような目は獲物を捉えても輝きはしない。玉かんざしや、印籠などの根付のようなものと思えば上等すぎるが、大百足のそれはただの装飾品ではなく立派に機能している。熱いものに触れれば意識する余地なく手を引っ込めるように、本能に任せ一途に新兵衛らへと向かって行く。
それがもう目の前まできていた。安吾とたえを抱きかかえた新兵衛はまさに横っ飛び寸前だった。ところが、地面を叩いていた触覚が鼻先をかすめ、軒から上をまさぐっていく。果たして大百足は、本堂間際で急上昇、甍の上へと進む。生命維持に欠かせないのが食料の摂取なのだが、最優先は生命の存続である。まずは九尾から逃れたいのであろう。節の境を示す筋がまるで福引のカラポンを正面から見たごとく上へ上へと上がっていく。と同時に、うようよとした足が空気をこねくり回す。新兵衛らは、大百足の通り過ぎようとする下からその様子を、ただ呆然と見守るばかりであった。
やがて大百足が通り過ぎ、遮られていた日の光に照らされるとあとはもう、二本の尾脚がするするっと軒上に上がっていくばかりである。そして、最後のさいごにその先端の鍵爪が雨どいと軒瓦を引っ掻いて破壊するに至り、新兵衛らは本堂から飛び出す。回り込んで大百足の行く手を確認した。
甍を乗り超え、墓を破壊しつつ走る大百足とそれを追う狐の大群。矢のように走って行く狐の流れの中に立って新兵衛らは、はたと見上げる。上空では九尾が大百足に業火を吐いていた。
大百足はというと、蛇行しつつ、老朽化したツギハギの築地塀を乗り越えていく。行ってしまうと狐の大群である。大百足の後を追っていくのだが、その数から辛うじて残っていた築地塀を少しずつ削り、崩し、挙句、築地塀は無かったことになってしまう。
さえぎりがとっぱらわれ、視界が通ったはずの新兵衛らだった。が、もうすでに大百足の姿は消えていた。見えるのは森に雪崩込む狐らばかり。そして、九尾。上空の一点から四方八方に業火を放射している。
その火の槍を突きつけられて逃げ惑う大百足はというと、蛇行するだけが能ではない。森に乱立する木の幹をはしごに登るごとく伝っていく。それが空からは見えにくい。扁平の薄っぺらい側を天に向けて走っているのだ。
そうはいっても九尾は大百足を見失うことはない。眷属がいた。吠え立てるその様子から、敵がどこに向いて走っているのか理解している。狙いを定めておいて業火を吐く。ほとんど追い込み猟である。一瞬で木々は灰と化し、それから少し間を置いてその灰塵の上を狐の大群が走っていく。大百足は死んではいない。山を奥へ奥へと遁走している。
風に乗って降り注ぐ灰塵の中で、新兵衛らは立ちつくす。そして、ただ一点、炎が一筋走るのを見ていた。火を吐いた、また火を吐いた、とだれもが内心言葉を発してはいたが、それを口に出す者はいない。
「いまのうちだ。小松君」
乾の言葉に、新兵衛ははっとした。そうだ、いまのうちだ、と安吾とたえの手を引いて本堂に駆け込む。あとから乾や生き残った者らもぞろぞろと続いた。
広がった札を前に、新兵衛、安吾、たえが駆け込んだかと思うとその後ろを十八人が囲む。どよめきと共に、これがか、と声が上がった。




