第32話 雷
唐突に、外から獣の遠吠えが聞こえてきた。それは一つや二つではない。滅多矢鱈にあちこちの山々から、それも急激に数を増やしているようだった。それから察するに獣は、呼応して廃寺を包囲しようとしている。だとしたら、たまったもんじゃない。やつらが仕掛けてくる前に終わらせる! 慌てた新兵衛は、場に手を伸ばす。
ところが、その手は宙で止められた。陽三郎が新兵衛の手首を掴んでいたのである。
「次はわしがやる」そう言うや否や、陽三郎は札に触った。
轟音と閃光。
本堂の中は真っ白になり、乾も新兵衛も安吾もたえも、そして、豪次郎ら五番隊も爆音に吹き飛ばされる。何が起こったのか。誰もが頭を振り振り起き上がる。すると真っ黒焦げの陽三郎が、どかっと座ったそのままの態勢でそこにいた。周囲に肉の焼ける匂いが立ち込め、陽三郎はというと、プスプスとくすぶっている。
雷!
誰もがそう思った。あの音と光は、陽三郎に落ちた稲妻だった?
信じられない。動揺というより衝撃だった。吹き飛ばされた体の痛みは当然として、その衝撃的な事実は皆の心にまで影響を及ぼした。たえなぞは、震えて縮こまっている。
新兵衛の番の邪魔をした。ただそれだけなのだ。なのに、雷に撃たれた。“決まり”を違反したならば恐ろしい罰が待っている。予想はしていたが滅茶苦茶である。新兵衛は憤りを感じた。が、しかし、そうだと言って止めてしまってはいられない。こんなことは序の口だろう。このままにしておけばさらに一層悲惨な目が襲ってくる。一刻も早く終わらせる。
ところが、本堂の奥の壁が破裂した。みな、反射的に札の場から退き、新兵衛も安吾とたえを抱きかかえ部屋の隅に下がった。
固唾を呑んだ。仏像の影から壁を破壊した張本人というか、獣が姿を現した。大きさのほどは土佐犬であったが、それは犬ではない。狐であった。
見た目、明らかにあの絵の『九尾』ではない。老狐であろう、灰色がかった体毛に尻尾が一本。ふさふさと長いその尾を悠々と左右に振りながら、仏像の前で唸り声を上げ、牙をむき出しに行ったり来たりする。
五番隊に依田権吉という者がいる。三十前だが老け顔で、いつも十歳は上に見られていた。それは、生れ付きというわけではない。半平太が牢に入れられると、権吉はその牢番をかって出た。牢と外とのつなぎ役になるためである。ところが、同じく獄に繋がれていた山本喜三之進という男から毒饅頭を無心された。拷問があまりにもひどかったのだ。そして、権吉はそれを目の当たりにしていた。幸か不幸か、毒饅頭を届けるという企みは藩庁に見破られ、その任を解かれてしまう。権吉はというと、よっぽど恐ろしい夢を見るのだろう、以来ぐっすりと眠れたことがない。
一方の老狐は獣ゆえか、あるいは長く生きてこられた所以なのか、直感で一番弱そうなのは権吉だと分かったようだ。不覚にも、意気揚々本堂に飛び込んだはいいが、人間たちに囲まれたかっことなってしまっている。突破口を開かなければならない。
そんなことは露知らず豪次郎は老狐と対峙すると太刀を抜きがてら、瞬殺とばかりに横に薙いだ。果たして老狐は飛んだ。宙で権吉のすぐ傍を摺り抜け、壁に着地したかと思うとそのまま壁を走って行き、開きっぱなしの戸口から外へと消えていった。
むざむざ見送った乾らは、どんっと床を打つ音にはっとする。権吉が卒倒していたのだ。その床には血溜りが広がっていく。驚いて皆が権吉に駆け寄ろうとしたその時、老狐に突き破られた壁の穴から多くの狐がどっと湧き出してきた。濁流のように次から次へ、仏像の頭の上からその脇からと延々にそれが続く。気が付けば権吉はその下敷きとなっていた。乾らは壁に張り付き、無数の狐が権吉の上を走って行くのを固唾を呑んで見守るほかなかった。
やがてその流れが途絶えると皆、権吉に駆け寄る。権吉はボロボロになってこと切れていた。
札はというと、なんら変わらない状態で床に張り付いていた。どれだけの狐がその上を通ったというのか。百や二百ではきかない。権吉をボロ雑巾のようにしたのだ。札とてそれは免れないはず。だが、どの札も傷一つ、ついていない。
そこへ銃声。乾らはきびすを返し、表に走った。本堂を通って行ったのは、狐のほんの一部だった。総勢七、八百はいるだろう、境内は狐に埋もれていた。
そんな中でも、外で待機していた者らは健在だった。狐らの大群に囲まれ、それを回避するためか、うわばみの背中に上がっていて、そこからおのおのが銃を撃ちかけている。一方で、銃弾を受けているはずの狐らはというと、仲間が次々倒れていくのに反撃する気配も見せない。よっぽどうわばみの方が気にかかるようだ。動き出すのを警戒してか、距離を保ってそれ以上近づいてこない。言うなれば、唯八らのやりたい放題である。
それにもまして、うわばみの上の彼らを喜ばせたのは撃たれた狐が生き返ってこないことである。それから察するに一際大きい灰色の狐は札の化物ではない。たぶん、この土佐山の主であろう。あるいはこの数から言って土佐国の主かもしれない。それが子分を引き連れてここにやってきた。
だとしたらこの状況はなんなのだろう。これから何が起こると言うのか? 皆目見当がつかず唯八らは戸惑っていた。それもそのはず、唯八らは新兵衛が捲った札を知らない。




