第26話 鞍馬刀法
十年以上も前になるのだが、新兵衛は大地震を経験した。当時、『寅の大変』と呼ばれた安政南海地震である。はじめゆらゆらと揺れ、それが激震に変わり、やがては津波に襲われた。家は流失し、あるいは残っていても潮水に浸かり使い物にならず、多くの人が道端で暮らしていた。土地は塩害でままならず、その時に飢える人の目というのを知った。牛鬼の目はまさにその目だった。それがすぐそこにあり、今まさに一直線に向かって来ている。
垂直に跳び上がった新兵衛は、逆手に軒瓦を掴むと己の足を空へと放り上げる。間一髪、その下を牛鬼が行った。壁を破壊し、埃と轟音をあげ、そのまま家の中に突っ込んでいく。
新兵衛は、あげた足の勢いで屋根に上がると斜めに駆け上がり、棟へと達するとそこを一直線に走る。そして、それが途絶えると飛ぶ。移ったその棟を走り、それが途絶えると、また飛ぶ。
後ろからものすごい轟音が近づいてくる。それは破壊音に違いなく、新兵衛を追って牛鬼が壁を突き破り、柱をへし折り、家の中を突き進んでいるに違いない。
前方ずっと先を乾ら数人が走っているのが見えた。さらに向こう、川沿いの道にぶつかるその地点に横二列の藩兵の姿もあり、だれもが銃を肩口にあてがい、砲身を水平にし、牛鬼を待ち構えている。
「小松君! こっちだ!」
乾の叫び声に、新兵衛は答えた。屋根を斜めに下り加速をつけながら道に向けて飛んだ。ところが、飛んだのは新兵衛だけでない。牛鬼もまた壁を突き破って飛んでいた。
新兵衛は忘れていた。牛鬼の武器はその体に備わる角や爪、牙だけじゃないことを。その跳躍力、あの築地塀を飛んだ時、まざまざと見たはずではなかったのか。牛鬼はもう新兵衛の背中まできていた。
着地と同時に新兵衛は、横に飛ぶ。間一髪かわしたものの牛鬼も着地の反動を利用してさらに飛ぶ。宙でまた、追いつかれてしまった。
だが今度は、飛んだ先がよかった。家と家の狭い隘路で、牛鬼は二つの家に突っかかって新兵衛の着地点まで及ばなかった。そのうえ、衝突の勢いで隘路がせばまる方向に家が傾く。屋根の置石がバラバラと牛鬼の背中に降り注ぐ。
こいつ、挟まりやがった。
癇癪持ちの子供のように、それでも構わず突き進もうと牛鬼はもがいている。家はきしみを上げていた。倒壊寸前、家を支える柱が折れるのも時間の問題と思えた。
その牛鬼を目の前にして、大きく息を吸うと新兵衛は、端座した。そして、腰の太刀を鞘ごと抜くと自身の正面で鐺を地につけて、刀身を立てた。柄を右手に握り、鞘に左手を添える。小松家に伝わるといわれる京八流は、正確いえば、そのさらに古流である。『鞍馬刀法』といい、突き詰めれば念術であり、それは概ね、三つであった。
一つは眼術、一つは掌術、一つは刀術である。眼術は見ただけで相手をすくませ、それを極めれば眼力だけで相手を殺せると言う。そして、それこそが『鞍馬刀法』の奥義であり、掌術はというと、眼術の前段階だといっていい。相手に気を送り、内部から相手を破壊する。極めれば、気を自在に飛ばすことができ、触れずして相手の外傷、内傷思うがまま。そして、刀術。それは三つのうち初歩であり新兵衛の力量はここまでしかない。細く長い息を吐きながら正面に立てた太刀に気を送る。鞘の中に己の気が充満していくのを脳裏で描く。
牛鬼の挟まっている左側の家の方が、作りが悪かったのか、がくんと屋根が下がった。と同時に、牛鬼も前に出る。手を伸ばせば新兵衛に届く距離である。ところが、かえって左の家屋が障壁になり、それ以上はやはり、進めない。顔だけが前に進んだかっこだ。
壁と壁に挟まれた牛鬼は、おぞましい顔だけが強調されていた。普通なら恐怖に耐えかねて逃げてしまうところを新兵衛は動じず、己の術に集中している。道場で黙想しているがごとく、心を落ち着かせ端座する。そこへ、予期せぬ牛鬼の爪が襲いかかる。左の壁越しに、家の中から牛鬼の右手の爪が一本通された。
それが、鼻先をかするや否や新兵衛は、鞘から太刀を抜き放つ。上段から繰り出される白刃が牛鬼の爪を両断した。鯉口を鳴らし太刀を収めた新兵衛は、落ちた牛鬼の爪を手に持つ。そして、それを牛鬼の鼻穴から下顎に突き通すと、そこから強引にも、貫いた爪先を地面へ押し込んでいく。
ちょっとでも牛鬼をその場に固定させたい。さらに新兵衛は、爪の切断面に足をかけた。そこから垂直に飛んで、おもいっきり全体重を乗せる。爪先が辛うじて地に刺さっていた程度であったが、ザクっと一尺ほど沈む。うまくいった。あとは乾らに向けて走るのみ。二回三回と牛鬼の背を跳ね、道に出ると新兵衛は、一心不乱に突っ走る。
牛鬼の怒りは凄まじい。頭を振って地から爪を抜き取ったかと思うと強引に体の向きを変える。左側の家も、右側のも、倒壊した。激しい破壊音と巻き上がる砂煙。牛鬼の目は血走っていた。怒りやら憎しみやらの感情がそこに映し出されたのだろうが、その思いと裏腹に、新兵衛を追う牛鬼の姿はぎこちない。右足一本失って身の釣り合いを取れずガクンガクンと、しかもその度ごとに、顔に刺さった己の爪が地面につっかかって、追いつけるどころかむしろ離されて行っている。
新兵衛はというと、乾らが待つ銃の射程までもう少しであった。振り返って、牛鬼が付いてきているか確認すると、牛鬼は相当頭に来ているのだろう、やはり喘ぐようについて来ている。
その調子だ、来いよ! 目に物言わせてやる!
と、思い上がったのがいけなかったのか。その時ちょうど、牛鬼の鼻先にある爪が煙となって消えた。咄嗟に新兵衛は、昨日橋の上で刀鬼の腕を掴んだ時のことを思い出す。切り離した部分が消えると再生が始まる。
果たして、牛鬼の右足は再生を始めた。『刀鬼』の頭は随分と時間がかかった。化物といってもやはり頭は頭、複雑な創りで、一方の牛鬼は足先で、しかも人で例えるのなら骨か、歯のような簡単な創りである。再生は瞬く間に終えた。一挙に新兵衛は、距離を詰められる。あの跳躍力を使われたならば捕らえられる、もうそんなところまで牛鬼が近付いて来ていた。




