第25話 きょうじい
唐突に、牛鬼の足が一本、天を突いた。それがそれぞれの足で行われ、その運動はやがて凄まじい速さに変わる。先ほどは、走る後方に畳を巻き上げていた。足一本一本にどれだけの力があるというのか。
そもそもがこの巨体であの速度なのだ。その足が全て空を切っているのだから、ひっくり返っている体の方に影響が出ないはずがない。次々に繰り出す足の勢いで牛鬼の体が上下に振動しだした。
たぶん、ひっくり返ったことがいままでになかったのだろう。起き上がりたいのであれば、足を上下に動かしたところでどうにもならない。とはいえ、牛鬼は早々にそれを悟った。遅れ馳せながら牛鬼は、体をのけ反らせる。そして、今度は足をかき回すように使いだす。
気味の悪いものを見てしまっている、と新兵衛は思った。己の知るかぎりこんな醜い生き物はいない。のけ反って床に突き刺さっていた角が床板を破壊して抜ける。当然だ。牛鬼の力から言えば床板はペンペラなのだ。ドンっと、反った体が天秤をくらって床を打つ。
またのけ反る。角が床から抜ける。そんなことを繰り返していると頭の周りの床が見る間に無くなってしまう。起き上がるための支点を失った牛鬼はそれでもめげずそこで頭を振り回し、唾液をそこら中に撒き散らす。ギャーギャー喚きながら、足はというと、滅多矢鱈に回している。
新兵衛は子供の頃、亀を飼っていたことがある。鏡川で捕まえたイシガメだが一尺はあった。のろのろ動く動作と、鏡川の鏡の字が『きょう』と読めることから『きょうじい』と名前をつけて可愛がった。
そのきょうじいがひっくり返って起きられないところを何度も見た。牛鬼のように頭で地面を押そうとしているのだが、それが滑って力が抜ける。その仕草が滑稽で起こしてやる度、幼き新兵衛の心のひだがくすぐられるようだった。だが、目の前にあるそれは凶悪で、近寄るにしても危険極まりなく、五体に備わる殺人武器が思いやりなんて生易しいものの介在を許さない。
好き勝手というか、滅多矢鱈に振り回される牛鬼の六本の足。その一つが偶然にも柱にガツっと突き刺さる。すると、その体が横にずれた。それで狂ったように回す頭が敷居の上となりその角がそこに引っ掛かる。
牛鬼は、そこを首でぐっと押したかと思うと体がねじれ上がって表向きに返った。当の本人はというと、なんで戻ったのか気付いてないようだった。牛鬼はきょとんとしている。それも束の間、何事もなかったように新兵衛を正面に捉え、大きく口を開き、咆えたかと思うとそこから万歳をするように足を大きく上げた。
生臭い鼻をつく息と意識を吹き飛ばすほどの咆哮。硬直してしまった新兵衛は、無防備にも牛鬼に上から見下ろされるかっこになっていた。
はっとした。相手の姿かたちに呑まれてはいけない。咄嗟に、牛鬼の懐へ自ら飛び込んで前転、右脇をすり抜けてその背後に回ると新兵衛は、脇目をふらず一心に駆けた。
一瞬、新兵衛を見失ったのだろう、牛鬼はというと、固まっていたが、両側頭部についた菱形の耳が背後に動く。ガーとも、ゴーとも聞こえる咆哮を発すると、足踏みするようにガツガツガツと足を床に突き刺し、胸を中心にその場で旋回しだす。
新兵衛は庭に躍り出た。背後の牛鬼とは、かなりの距離を稼いだつもりだった。それでもやはり速度を落とさず庭を突っ切ると植木に向けて飛び、その幹に足を掛けるとその反動で築地塀の屋根に乗る。さらにはそこから、弾けるように体を伸ばし、宙を舞う。より遠くへ、もっと牛鬼から遠ざかろうとする跳躍だった。
ところが背後、いや背面に気配を感じた。牛鬼も飛んでいたのだ。新兵衛より高い位置で両足をばっと広げていて、あたかもそれはハエトリグモが蝿を捕まえようとする仕草に似ていた。
ぎょっとした新兵衛は、着地すると勢いを殺さず、前方に回転する。背後でドンと大きな音がした。牛鬼である。それが悔しがっているのか、憎らしく思っているのか、咆えた。一方で、新兵衛はというと、立ち往生となる。着地点が悪かったのか、回転のしかたが悪かったのか、前方を家屋で塞がれてしまっていた。
それで、追い詰めたと確信したのだろう、哮り狂っていた牛鬼は一変、喉をゴクリとやってじーっと新兵衛を見据える。その目は、飢餓に苦しむ人の目であった。




