第24話 撃鉄
カツカツと、瓦を硬いものでこつく音が部屋に響く。銃声は止まっていた。外の者らは『牛鬼』を見失ったのだろう。息を凝らして天井を見上げる。
乾いた音は、右へ移動したかと思えば左に、行ったなと思えばまた戻ってくる。行け! 行け! と新兵衛は心で念じているのだが、その音は無常にも三人の真上で止まった。
固唾を呑んだ。穿つほどの強い視線を天井に向けて、安吾もたえも固まっている。
外からは、「どこへ行った」と幾つもの、男たちの叫び声が聞こえる。ここだ! とは、間違っても言えない。ただ、息を凝らして去ってもらうのを待つばかりなのだ。
「いた!」と外で、誰かが『牛鬼』の姿をこの屋敷の屋根に見たのであろう、大きな声が飛んだかと思うと今度は天井からガツンと叩いたような音が響く。『牛鬼』は屋根を跳ねたに違いない。立ち去ったかと、ほっとした矢先、ふすまの向こうでドカンと大きな衝撃音がした。埃がそこで充満したのだろう、閉じているふすまの間から白煙が漏れてきている。
やつは一旦飛んでその体重に任せて瓦をぶち破り、隣の部屋に入った。
『牛鬼』は嗅覚がよほどいいのだろう。臭いで狙いを定め、ここに入ってきたんだ、と新兵衛は直感した。目的は子供。若鳥が美味いのを、人に例えていうのはよこしまな考えかもしれないが、きっと中切村で味を占めたに違いない。たえを抱きかかえた新兵衛は、埃が漏れるふすまと反対側の部屋に移る。それからふすまを開け、ふすまを開け、走りに走る。
果たして、いまし方までいた部屋の、奥のふすまが弾け飛ぶ。黒い塊。右、左と視線を巡らし、逃げる新兵衛らに気づくや否や、大口を開けて新兵衛らを追ってきた。開いて左右に収まっているふすまを次々に跳ね飛ばし、鶴が彫刻された欄間をへし折り、尖った足を高速に回転させる黒い塊は、畳を後ろにびゅんびゅんと跳ね上げて猛進してくる。
どう考えても追いつかれるのは時間の問題だった。安吾もそう思ったのだろう。走りながらガチンと短銃の撃鉄を上げる。新兵衛も鯉口を切り、たえを下ろし、行けと命じる。そのたえが走っていくと、おまえもいけと安吾にもいう。
ところが、安吾は黒い塊を見据えていた。グッと腰を落とし、短銃を構えている。その銃口はすでに黒い塊をとらえていた。安吾が発砲する。
驚くことに、銃弾は命中した。凄まじい勢いの黒い塊はつんのめったように前へ転んだかと思うと足をおっ広げて横向きに二度三度転がり、仰向けになって新兵衛の目の前で止まった。
真っ黒と思ったが牛鬼は少し灰色がかっていた。そうであろう、真っ黒ならば暗闇にはかえって浮いてしまう。肌にぎっしりと生えた短い毛がその色目を出していた。
胸と腹の間は節とまではいかないにしろ、ぐっとしぼんでいて、胸は移動などの運動器官、腹はその維持のための内蔵を詰め込んであるのだろう。しぼんだ紙風船のようにだらっとたれていて、その大きさは四畳半ほどある。どれだけ人を食えばそれがパンパンになるのか、想像がつかない。
だらりと力を失ったその尖った足は、子供の頃捕まえたツガニを思い出させる。甲羅を手に持って腹から見た姿にそっくりだった。ただ、ものは全く違う。肘と言えば良いのか、そこから微妙に円弧がかった円錐形の爪というか、骨というか、硬いものが伸びている。
先端はちょんちょんに尖っていてその材質からみても鎧兜なぞ優に通されるであろう。そして、頭についた角である。牛なぞは先が内側に向いているものだが、牛鬼のは、まっすぐ前を向いている。どれもこれも人を殺すためと思うと背筋が凍る。
安吾は大の字になって倒れていた。銃火の反動を上に逃がした証拠である。それを抱き起こした新兵衛は言った。
「すごいぞ、安吾」
牛鬼の鋭い牙の間から分厚くて長い舌が垂れている。裏返って見えないが、安吾の弾は見事眉間に命中したに違いない。安吾はおそらく、火縄の心得があるのだろう。土地はもたずとも、山で猟をする地下浪人は大勢いる。
「早くたえを追え。おまえが守るんだ」
死んでいるのは一時なのだ。安吾の話から、牛鬼を倒すには弘瀬村にある札を『貝合わせ』のようにそろえなければならない。さ、早くと安吾の背を押すと新兵衛はその遠ざかる足音を背中で聞きつつ、身構えた。すでにだらしない格好に伸びていた舌は、顎の中にしまわれていた。




