第18話 境界
遠くの家の影から娘が顔を出した。それが小走りに来る。年は十五六であろう。あの庄屋の隠れ家で安吾はただ一人ではなかったのだ。きっとこの娘と一緒にいた。そして、守っていた。たぶん娘の方が一歩も動けなかったのだろう。それでわしの方から来てもらうために、屋敷に誘った。そうなんだろ? 安吾。
「どうしても大将にお願いしたいことがある」 そう新兵衛に言うと安吾は、娘に向かって言った。「行こう」
娘の名は弘瀬たえと言った。あの屋敷の、庄屋職の娘だ。それだけは分かったが、安吾もたえもどこの誰かを言っただけで他には口をきかない。喋っている時間が惜しいというわけか、すぐにでも乾さんに会いたいとみえる。確かに新兵衛を置いて行きかねない足送りだった。それが中切村に入った途端、様子が変わった。鼻につく血の匂いに、そこでなにが起こったかが分かったのだろう。安吾は噛み締めるように涙を流し、たえはというと、耐えられないのだろう、声をあげて泣く。
それ以後、二人がとぼとぼと歩くのに新兵衛は急かさなかった。日は傾きだしていた。山に沈んでしまわない内に、と気だけが急いたが、中切村を抜けても二人の速度は上がらない。たぶん、この二人は今起きているその全てを知っているのであろう。荒れ果てた中切村を越えた後の、その落胆と怯えぶりからうかがい知れる。
一体なにがあんなひどいことをしたのか。周囲への注意は否応なしに高められ、過剰なまでの警戒心が風で揺れた葉などでも見逃すことを許さない。そして、その度ごとに気を張り、精神力を消耗させていく。運を天に任すくらいの気概がないと戦場では生き残れない、と戦国の頃の武士は言ったそうだが、もしそれを、この場でだれかが言おうものならどうだろう。このじわじわ来る恐怖には慰めにもならない。
実際、中切村を襲った何物かから見れば、わしらは獲物そのもの。ならば問題はその何物かが、わしらを見つけられるか、そうでないか。それを運というなら、どうかその何物かはあほうであってほしい。であるなら、そいつは獲物をみすみす見逃すということ。そんで、あほなためにどこぞの山奥で迷ってしまい二度と山を降りてこられない、なんてことになってほしい、とそれこそ天に願う。
だが、そうもいくまいな、とも新兵衛は思う。まだ見ぬ何物かは、人肉を欲しているのだ。ならば人が行き交うこの道沿いで待ち伏せしているのは必定。
山の中を行くか。そんなことを考え始めた頃、たえがしゃがんだまま動けなくなってしまった。肉体的にも精神的にも、もう限界なのだろう。その気持ちは十分分かる。だが、時間は刻々と日暮れへと向かっている。
「仇を討つんじゃろ!」
安吾のその声に、たえは立った。ほっとしたものの新兵衛は、山の中を行くには無理だと思った。子供の脚力だ。しかも、憔悴しきっている。鏡村に到達できず、森の中で野宿する。それなら日があるいま、何物かに出くわした方のがよっぽどましなのだ。
だが、やがて日も、山の端に掛かり始める。それを見た安吾とたえが打って変って足取りを早くした。それでいよいよ新兵衛は確信した。何物かは夜に姿を現す。
『今日は八日
小高坂村 七日の五つ頃 破戒僧
鏡 村 六日の夕刻 破戒僧
今井村 無し
中切村 七日の夜、推測 人肉
弘瀬村 六日の夕食後、推測 神隠し』
新兵衛は、弘瀬村で地に書いた箇条書きを思い出す。中切村も弘瀬村も、推測だが、怪異は夜に起こっている。
果たして、その推察通りその何物かは今井村のほど近く、鏡川の底で目を覚ました。淵底の漆黒に身を同化させ、目だけがぎらぎらと光っていた。
そうとは知らず新兵衛らは無人の今井村を走っていた。鏡村はもう目と鼻の先である。日没直後で、この日の白日は太陽の残り火だけで辛うじてもっていた。
だが、それもほんのちょっとの間。辺りは唐突にとっぷりと暮れ、赤々と燃える篝火が、鏡村だけを闇の中に浮かび上がらせていた。安吾とたえの手を引く新兵衛は、漆黒の世界から抜け出そうと無我夢中であった。光と暗黒の境界線はもうすぐそこにある。安吾もたえも、足を絡ませる、立て直す、の連続であった。
闇の向こう、光の中には藩兵が三人立っていた。新兵衛らに気付いたようで、なにごとか! と叫んでいる。その手振りから止まれと言っているのだろう、そんなことは無視して新兵衛らは、光の中へ飛び込んでいった。