第16話 硝子玉
だが、戸の内側からの反応はなかった。さて、どうしたものか。よくよく考えてみれば、銃なぞより己の命なのだ。銃を持ったからといって命の保証はないし、かといって銃ほしさに命を捨てはしまい。だれでもが出来る足し算引き算といえよう。ましてや、この状況で生き残ったほどの子である。
わしとしたことが、と苦虫を噛む。やはり正攻法で説得するしかないか。だが、そういうことを、わしは得意としていない。どうしたものか。
と、この時、地鳴りと空気を震わすほどの轟音がいっしょくたになって襲ってきた。咄嗟に銃を床に置き、「これで身を守れ!」と言うや否や新兵衛は走った。
屋敷を出ると、音が来たと思しき方向を見た。山の斜面ずっと左上方向に寺がある。そこに砂塵が上がっていた。
尋常ではないと驚きつつ、山の斜面を駆け上がる。行く手に山門の石段があった。寺を目指す新兵衛はそこに至ると石段を使って速度を上げ、山門がもうすぐそこだというところで足を止め、息を潜めた。身を低くして両手両足、トカゲのごとく石段をよじ登っていく。
それは突然だった。まるで山門を鞭で叩くように、巨大な黒い帯が青い空に走ったかと思うと身を揺るがすほどの振動、そして、衝撃に襲われた。ぎょっとしたってもんじゃぁない。まるで風の無い突風が通り過ぎて行ったかのようで新兵衛は、唖然とその衝撃を見送った。そこへ今度は、のべつまくなしの瓦や木片である。空から降って来るのに慌てて、石段を駆け下りる。が、踏みとどまった。これは明らかに、わしへの攻撃ではない。
振り向くと、棒を起こすように黒い帯が、山門を支点に起き上がってきている。太陽と重なり逆光となっていてその姿ははっきりとしない。ゆっくりとした動きにまさかとは思ったが、そのまさかだった。それが垂直に達したかと思うと今度はこっちに向かって倒れてくる。
幸運にも新兵衛の目の前でその帯は、身を翻した。頭上で風を切り、大きく円を描いて山門右側の築地塀に張り付く。
巨大な百足。目の前でそれが翻った時、新兵衛ははっきりと見た。平ペったい顔の下ヅラに鎌状の牙が生え、両側面には毬ほどの眼球がついていた。焦点が合っているのかいないのか、新兵衛と目が合ったはずである。真っ黒く、光沢のある硝子玉に新兵衛の顔が映っていた。それがグンっと右に振れる。先端の赤いヒゲは、一旦は石段を叩くも、右に振れる急激な動きに己の頭を追うようにして行ってしまった。
大百足の無数の赤い足が動くと波をうつようである。築地塀の高さとほぼ同じ幅の赤い頭が、塀にへばりついて走っていき、頭の後からはというと、連結した幾つもの黒い胴が次から次へと続いていく。だが、それでもまだその全貌は見せていない。その先は右に傾いている山門の棟瓦を折り返し、まだ向うにある。果たしてその最後尾が、棟瓦を越えた。二本の尾脚が天を指している。全長十五、六間はあろうか。
悠長に、固唾を呑んで見守っていた新兵衛であったが、そうはさせてもらえない。さらなる音の衝撃が辺りを襲う。
さっきのとは段違いであった。身構えていなければ新兵衛は、石段を真っ逆さまに転げ落ちていただろう。山門の甍はというと、散々に飛び散り、空中に舞っていた。それがバラバラ落ちてくるのに驚き、這いつくばって頭を抱える。そして、瓦礫の下となった新兵衛は見た。
ぺしゃんこになった山門の上で白い大蛇が鎌首をもたげている。体格は百足より一回り大きいか。それが身を翻した。
一方で、大百足は境内に舞い戻ろうとしていた。ほとんど築地塀を越えていて最後の二節、三節を残すのみである。遁走せず、引き返すその様子に、回り込んで大蛇の後ろを襲おうとしている、と新兵衛は想像した。
当然、大蛇はそれを許すはずもない。新兵衛の視界から消えたかと思うと、頭と入れ代わるかたちで尻尾が飛んできた。そのしなり戻りが瓦礫となった山門を横にさらう。轟音とともに砂埃が舞った。
やつらは戦っているんだ、と新兵衛は思った。あの大きさからみて、中切村や弘瀬村を襲ったのはこの二匹ではない。だが、それがどうしたという。破戒僧なぞほんの序の口だった。嫌な予感はしていた。これがその答えか。
視界が晴れ、見ると山門は綺麗さっぱり無くなっていた。築地塀も、山門との接点から両側に半分、その姿を失っている。瓦礫から這い出した新兵衛は、その姿勢のまま、じりじりと石段を這い上がった。あの二体が戦っているかどうかはこのわしの推測、実際にその目で見なくてはならない。新兵衛は、石段の最上段からそろりと顔を出した。
大蛇と大百足は互いに鎌首をもたげ、にらみ合っていた。おのおのが隙を狙っての膠着状態である。ぞっとした。固唾を飲むも、その一方で、胸を撫で下ろしもした。ああやっているうちはいい。動き出せば被害は甚大だ。
だが、どうやってこいつらを退治する? あの動きの速さから大砲はまず当たらないだろう。