7.ウエディングドレス(7)
七海は虚を突かれたような表情で、ボンヤリと雪の顔を眺めている。思わず雪は七海に声を掛けた。
「奥様?」
「あ、ええと―――あの……そうですね。彼は、すごく強い人です。私も―――子供の頃、彼は人の痛みなんて分からない人なんじゃないかって思っていた時期がありました」
七海が口にした『子供の頃』と言う言葉がカツンと胸に引っ掛かった。そこで初めて雪はある可能性に気が付いたのだ。
「でも分からないなりに―――歩み寄ってくれようとする、と言うか……彼は勝手な事ばかり言う人ですけれど、こっちが言った意見を無視する訳じゃなくて……ちゃんと聞いてくれようと努力してくれます。漸く最近、私もその事に気付けたんです。だから―――言っても言っても我を通される事があって疲れる事もありますが……息が詰まるとかそういう事は無いです」
背筋にヒヤリと汗が落ちた。きっと雪の予想は当たっているのだろう。
「奥様は―――もしかして、昔から彼をご存知なんですか……?」
どうしても震えてしまう声を必死に抑え込み、雪は言葉を絞り出した。そして息を詰めて目の前の七海の表情を監視する。
すると後ろ暗い所の何もないであろう彼女は、キョトンとした表情で瞬きを繰り返し、軽く肩を竦めて。それから気を取り直したようにふっと表情を緩めて雪を真正面から見つめて頷いた。
「あ、はい。高校の同級生で。彼の幼馴染と親しかったので卒業後も何だかんだ付き合いがあって―――世に言う『腐れ縁』ってヤツなんです」
その途端、以前頭に直接下りて来た天啓のようなひらめきが、再び雪の脳を構成するシナプスを伝って繋がった。バラバラだったピースがカチリと嵌ったパズルのように、今やっと見えなかった全景が目の前に姿を現したのだ。
「……そうだったんですね」
雪は視線をカップの水面に落とした。コーヒーの深い茶色い水面がゆらゆら揺れて、不確かな像を結んでいる。
何故彼が雪を幼馴染の集まりに伴う事を拒んだのか。彼は雪を今目の前に座っている七海に会わせたく無かったのだろう。それは確信だった。そして、彼が決して雪に執着を見せなかった訳も―――いつでも受け身で、ただただ優しかったのも。ただ単に、雪が彼の一番では無かった……ただそれだけの事だ。
全てに説明が着く。
そうなのだ。だから雪が彼を手ひどく扱おうと、自分勝手に振る舞って嫉妬させてやろう、傷つけてやろう……と八つ当たりしてみた所で、それはまるで見当違いの行いだったのだ。
彼は傷ついたりなんかしなかった。もっと言えば、嫉妬などする訳が無い。
そして勿論、雪に振られた事で、彼が雪に情熱を示さなかった事を後悔するなんて事は―――決してあり得ないのだ。
「ええと、それが何か……?」
何だか妙に可笑しくなって来た。雪は笑いを堪えて柔らかく微笑んだ。そして込み上げてくる物を振り払うようにゆっくりと首を振って、現実にピントを戻す。
「いいえ、何でもありません。……じゃあ奥様は十分にご存じですよね、彼の性格は」
七海は顎に指を当て少し考え込む素振りをしてから、首を振った。
「いえ、今思うと……あまり自分は彼の事を知らなかったんだなって気付かされている所なんです。彼は基本、自分の話したい事しか話さないので。お喋りだから―――色々聞き流していましたし、こちらから聞く暇が無かったと言うのもあるのですけれど」
「―――お喋り……ですか?」
「えっと、そうですね。正直うるさいなって時の方が多かったですね。彼の幼馴染が私の友達なんですが―――とにかく昔から彼が自分の話ばっかりするので、彼女もほとんど聞き流してました。私も正直、高校の頃はコイツ面倒臭い奴だなって、彼の事思っていまして……」
「そうなんですか。高校生の頃は少し違ったんですね。私は年の割に寡黙で落ち着いた人だと思っていたのですが……」
青天の霹靂とはこの事だろうか。
薄っすらと感じていた事実が明らかになったと思ったら。彼の思いも寄らない姿を知ってしまった。寡黙で、もしかすると自分より内面的に大人なのではないか、とすら思っていた彼が、『おしゃべり』だとか『自分の話ばかり』するとか、更に七海に『メンドクサイ奴』だと思われていた……?七海の口から語られる彼は―――もはや雪の知っている『彼』とは別人であった。
彼は変わってしまったのか……?
いや、違う。高校生の頃の話だ。彼は元々そう言う人間だったのだ。おしゃべりでマイペースで……彼の妻となった七海に対しては鬱陶しいくらい構って来るような。自分が興味を抱き、好きだと思っている相手に対しては―――正直に振る舞う人間なのだ。
そして雪は……彼にとってそう言う相手では無かった。
そう言う事だ。ただそれだけの話だった。
雪は夢から醒めたような気持ちになった。
そしてカッと体が熱くなったのに気が付いた。
ああ、何て自分は恥ずかしいのだろう……!まるで悲劇のヒロインのように、どっぷりと不幸な顔をして。自分を傷つけて、それによって相手を傷つけているつもりでいた。彼の本当の姿を全く見ずに、雪が勝手に作り上げたイメージを彼に押し付けて、彼も悲劇の配役の一人のように思っていた。
何て勘違い!
悲劇なんかじゃない。そう、これでは喜劇だ……!
今すぐここを逃げ出したい衝動に駆られた。
勘違いの挙句、しかも奪うつもりは無いと言いながら、七海の気持ちを揺さぶるかのような行動……自分で自分の気持ちに気が付かないよう言い訳ばかりをしていたが―――まるで昼ドラの主人公、悲劇のヒロインになったような気分でいたのだ。
最初から―――雪など箸にも棒にもかからない存在だった。
ただのエキストラなのに。何を勘違いをして……これって、悪女?いやそんな大層な物じゃない。悪女になり切れるなら、まだいい。正面から挑戦状をたたきつけるとか、腹を決めて略奪するために手を尽くすとか―――そんな覚悟も無いのに、周りを未練がましくウロウロして。これって―――悪女って言うより、そう、いうなれば『悪女ぶりっ子』だ!!
「「……あの」」
顔を上げて声を発したのはほとんど同時だった。
「どうぞ」
「いえ、どうぞ」
と一頻り様式美の譲り合いを行って―――最後に七海が雪に譲ってくれた。
「あの、有難うございました。本当に不躾なお誘いをしてしまって―――正直、断られると思っていたので」
「あ!そうですね。そう言えば……そうするべきですよね、本当は」
目の前の七海は恐縮して真っ赤になってしまった。(また、言い方……!)雪は自分の言葉選びの悪さに舌打ちしそうになってしまった。慌てて体の前で手を振って七海の遠慮を否定する。
「いえ!あの、そんな事は全くないです。こちらから誘っておいて、ある訳無いです。今のは完全に私の失言なので気にしないでください!」
そして不安げな表情の七海と目が合う。
雪は自分の迂闊さに困ってしまって―――深呼吸をして心を落ち着かせた。そうだ、誘った雪が慌ててどうする。不安なのは夫の元カノに呼び出された、彼女の方だ。そうして仕事用の落ち着いた余裕の笑みを呼び戻す。
「本当にお話できて―――良かったです。有難うございました。いろいろと―――その、謎が解けました」
すると七海はキョトンとし、パチクリと瞬きを繰り返したのだった。
その無防備な表情を目にし―――雪は今度こそ、スッキリとした気持ちで、心から微笑みを返したのだった。
次話で『ウエディングドレス』最終話となります。