2.ウエディングドレス(2)
その日、シフトで雪は休みの筈だった。けれども仮縫い済みのウエディングドレスの試着に、彼の妻が現れるのだと思うと居ても立っても居られなくなってしまった。雪は『紗里の大事なお客様で自分もお世話になっているから』と従業員を気遣う振りで、さり気なく担当を変わって貰ったのだった。
既に結婚した男性とどうこうなろうなんて、思っていない。
けれどもどうしても気になってしまうのだ。だからこの目で―――彼の選んだ相手を見てみたい。そしてその彼女が、彼に相応しい人間なのか見極めたい。彼の妻が自分よりもずっと素敵な女性であれば、このモヤモヤした胸の内もスッキリするような気がしたのだ。
こうして雪は、玲子とその義娘がアトリエを訪れる日、彼の妻となる女性が纏う純白のウエディングドレスと一緒に、彼女達の訪れを待つことになったのだった。
彼が選んだのはどんな女性だろうか?雪よりずっと若いらしい―――年は二十五。彼と同い年か一つ下だろう。ひょっとして大学の同期だろうか?それとも職場で出会った看護師?かつての雪のように玲子をエスコートする彼に声を掛けた女性だろうか?
彼は年の割に寡黙だが、そこが落ち着いていて良いと言う女性はたくさんいるだろうと思われた。何より見目も良く医者の卵で、有名なジャズピアニストを親に持ち……雪は結局足を踏み入れる事は無く別れてしまったが、高級住宅街にあるマンションに住んでいる資産家の息子だ。そんな優良物件を周りが放っておくわけがない。けれども何となく雪は思っていた。彼はそんな周囲の秋波などには目を向けないだろうと。勉強や仕事に集中して一人前になるまで、女性には目を向けずに過ごすのでないのではないかと。
そしてグラグラしていた自分が―――いつかしっかり芯を持った人間になれた時、再び彼に会いに行ってみたい。そう、思っていた。自分から勝手な事を言って逃げておいて、今更ヨリを戻せるなどと考えてはいない。いや、夢くらいは見て……いたかもしれない。でもそれは自分に都合の良過ぎる夢だ。一旦全てを投げ出し彷徨って、やっと一処に落ち着いた雪だったが―――そんな自分を彼が待っていてくれるかもしれない……そんな都合の良い夢想をしてしまう事が何度かあった。実際何もかも上手く行かないような辛い時期、そんな妄想を励みにしてみた事だってある。
だからこそ、彼が選んだ女性の事が気になってしまう。自分より素敵な女性であって欲しいと思う。自分など足元にも及ばないような。
けれどももし、自分と付き合っていた頃結婚など全く意識していなかった彼がこんなに早くそれを実行してしまった原因が、何か彼の意に染まぬ要因によってもたらされたとしたら……?騙し討ちのような事を結婚を焦った相手からされたとか?それとも玲子が気に入った相手を息子にあてがったとか?
例えば。雪は別れを切り出した後全く未練を見せず連絡をしなかった。彼は自棄になってしまい、思いあまって次に出来た彼女との結婚に踏み出してしまったとか……
(なんてね)と、雪は自嘲気味に嗤った。全て雪の願望が作り出した妄想だ。彼は自尊心のある、強い人間だ。寂しさや不安に駆られて、自分を見失う事なんて無い―――冷静過ぎるくらい冷静な人だった。雪と違って。だから雪は、そんな強い彼に引け目を感じて逃げ出してしまったのだ。
大人の女の振りをして、中身は幼い子供のままだった自分。他人の評価ばかり気にして、自分がどうしたいのかどうすべきなのか確固たる物を持っていなかった。だから年を取ってモデルとして頭打ちになり、若手にドンドン仕事を取られ始めて―――落ち目になった事に気が付いた時、足元がグラグラ揺れているかのような不安を覚えたのだ。学生にはこんな悩みは分からないだろう……そう断じて彼の前では愚痴を言わず、自分に優しく振る舞う大人の男性に愚痴を漏らした。勿論浮気なんかしない。其処まで雪は馬鹿では無かった。ちゃんと一線も引いていたし、愚痴を言う相手は選んでいた。
でもそれもこれも―――本当は、ただ彼に嫌われたくなかっただけだ。格好付けて年上のイイ女ぶっていた。彼に弱みを見せて嫌われるのが怖かった。けれどもドンドン周囲の状況が悪化していき、雪は怖くなった。怖くなって余裕がなくなると、それまで必死で顔に押し付けていた仮面がポロリと剥がれてしまい、今度は無性に彼に縋りたくなってしまった。『自分が一番正しい、世の中に何も怖いモノなんかナイ』と言う顔をして自信あり気に飄々としている余裕のある男を『仕事の苦労も知らない学生のくせに、偉そうに』と見下しつつ、一方で自分の弱みを見せないまま―――向こうから察して助け舟を出してくれないだろうか、といつの間にか無意識に願うようになってしまっていた。
ふと『結婚すれば、モデルとして頭打ちでも体面は保てる。彼の為に仕事をセーブしたと考えれば、自分自身に魅力や価値が無くなって仕事が減ったと落ち込まずに済むのに』と言う邪な願望が心の端に浮かぶ。けれども頭の反対側では分かっていた。学生で国家試験もこれからという彼が―――年上の女と結婚なんて考える筈がないと。
けれどもその当時よくこんな夢を見た。
仕事が順調な自分は結婚なんか興味はない、なのに彼が雪とどうしても離れたくない、独り占めしたいのだと言い募り、結婚して欲しいと彼女に訴える夢だ。嬉しくて幸せな気持ちで朝、目が覚める。そうしてその日は何だかそれが本当になるような気がしてくるのだ。結局そんな自分に都合の良い夢物語のような展開は、終ぞ訪れはしなかったが。
そんな悶々とした日々を過ごしていた頃の事だ。いつも忙しい彼と、会えない日々が続いていた。やっと時間が出来るのではと期待して連絡したある時、彼が「幼馴染に会う約束をしている」と言って雪の誘いを断った。何故雪より幼馴染を優先するのか。その時雪の胸の中にモヤモヤとした暗雲が現れたのだ。
そして雪は、彼から好意を向けられてはいるものの―――これまで熱の籠った視線を向けられた事が無かった事に、漸く気が付いた。自分は積極的で、彼は常に受け身だった。それは彼の性質だと思っていた。若しくは年下の遠慮ではないかと。確かに彼は優しい。雪の仕事や友人との約束を優先してくれて我儘を言う事は決してない。いつも笑って見送ってくれる。
だけどそれは果たして『優しさ』だったのだろうか?本当は彼には情熱を向ける相手が別にいるのでは?その時天啓のように、そんな考えが頭に浮かんだのだ。
「幼馴染って……もしかして女の子?」
「いや、男」
「その子と二人で会うの?」
「いや。兄弟とかソイツの彼女とか、学校の友達も来るかも」
微妙に濁した言葉が、鼓膜に引っ掛かってしまう。思わず雪は呟いた。いつもはこんな我儘を言うなんて、子供っぽくてゴメンだと思っていたのに。
「私も……付いて行っちゃ駄目?」
「え?それは……その、身内ばかりだし」
慌てた様子で拒絶を意味する言葉を発する彼に、胸がチクリと痛んだ。『雪は彼の身内じゃない』暗にそう言われたような気がしたのだ。
そんな痛みに気が付かない振りで、冗談にしてしまおうと雪は嗤った。
「やあねぇ、若者のお喋りの邪魔なんかしないわよ!私でしゃばらないで大人しくできるわよ?……それに最近、友達も結婚しちゃって中々予定が合わないから寂しくて。貴方の幼馴染にもご挨拶、したいなぁ」
嫌味っぽい。そう思ったが口が滑ってしまった。友人の結婚の話題なんて出すつもりはなかったのに。自分の失態に内心舌打ちしたくなった。雪の押し込めた苛立ちを知ってか知らずか、彼は申し訳なさそうにけれどもしっかりと拒絶の言葉を口にした。
「本当に、ゴメン。今度埋め合せするから……」
そこまで言ってから、彼は言葉を切って黙り込んだ。
その時は何故彼が口を噤んだのか、指摘されるまで分からなかった。
「雪さん……」
「え?」
気まずげに呟く彼の重い声で、漸く雪は自分に起こっている変化に気が付いた。雪は泣いていた―――無意識に頬を涙が伝っている事に、気が付いていなかったのだ。