14.先生の忘れ物
黛の両親、龍一と玲子の馴れ初め話の一部です。
「あれ?カセットテープ……」
椅子の上に置いてきぼりになっているそれは、きっと先生の忘れ物だ。と、玲子は思った。だってその椅子の上に彼の荷物や上着が置いてあったから。そう言えば先生を道で見掛けた時、小さいヘッドフォンをつけて音楽を聞いていたような気がする。きっとレコーダーとテープを持ち歩いているに違いない、と彼女は推測した。
中学生になった玲子に新しい家庭教師が付けられた。何でもお店のお得意様に医大の先生がいて、教え子を紹介してくれたそうだ。学年で首席を維持し続けている、とっても優秀な学生らしい。
玲子の家庭教師になった黛先生は……ちょっと変わっている、と彼女は思う。何処が、と聞かれると上手く説明できないのだけれど。
玲子は中高一貫の女子高に通っている。だから身近な男の人と言えば父親や祖父、親戚の伯父や叔父……それから同居している従兄の春彦と学校の教師くらいだ。けれども先生はどの男の人とも―――何だか違う気がする。
「何が違うのかな?」
例えば先生は口数が少ない。黙っているとちょっと怖い。だけど分からない事があって質問をすると―――弄った所為でガチッと固まりまくった結び目のような難問を、するすると紐解くように物凄く分かり易く説明してくれる。そしてその手順の間には、ほんのちょっとの無駄も無いのだ。まるで口を開くのを節約しているのかと思うほどに、彼の台詞や動作は簡潔を極める。
従兄の春彦も曜日を変えて黛先生に家庭教師をして貰っている。男同士の気安さなのか、何だか黛先生と春彦の距離が近いような気がする。二人の間の空気が、玲子と先生の間にある物よりずっと気安い気がして……何となくそう言う瞬間を目にすると、悔しいような気持ちが湧き上がって来る。つまり玲子は嫉妬していたのだ。春彦より先生と仲良くなりたい―――何度となくそう思っていた。
カセットテープをそっと手に取る。
次に来た時「忘れ物です」と言って渡せば良いのだろうか?二日後また春彦の為に先生はここを訪れる筈。
「―――先生って、どんな音楽を聞くんだろう?」
玲子はピアノを習っている。テレビは滅多に見ない、親の教育方針だ。その代わりクラッシックのレコードはたくさんあるので、それを聞くように言われている。それからお琴も習っているし、和楽のレコードはもっとたくさん聞くように、と時々注意される。こちらはあまり気は進まないが……。
最近はコンパクトディスクと言う銀色の小さい円盤が主流になりつつあるらしいが、父親がレコード好きなので、山野家の防音室に棚一杯にストックされているレコードの束が銀色の小さな円盤に切り替わる事はまだ先になるだろう。
幸いにもラジオを聞くのは禁止されていない。だから最近流行っている曲も勉強の合間に聞くようになった。クラスメイトと話が合わなくて困っていたから、勉強するような気持ちで聞いている。けれどもラジオの音は少しだけ雑で、クラッシックばかり聞いていた玲子の耳には何だか薄っぺらいように聞こえてしまい、クラスの女の子達が言うほど夢中にはなれなかった。きっと彼女達はテレビ画面に映る、視覚の部分も含めて好んでいるのだと……玲子は分析している。
ピアノは三歳から習っていてかなりの腕前だ。教室で開催している全国コンクールに出場して入賞する事もしばしばで、『もうちょっと頑張れば優勝できるんだから頑張りなさい』とピアノの先生は言うけれど―――何となく其処までの情熱は抱けそうにない、と玲子は感じている。ピアノは所詮教養をつけるための習い事で―――家を継ぐ為に本当はもっとお香の方に力を入れなければならないのだ。けれどもその肝心の香道の方で、従兄である春彦に全く玲子は敵わない。春彦はお香が大好きで……好きと言うより、ハッキリ言ってお香オタクだと、玲子は思っている。あんなマニアに勝てる訳がない。最近では両親も親戚も口を揃えてこう言っている「春彦を婿に取って継がせたらいい」って。つまり玲子の結婚相手は否応なしに春彦に決まっている―――と言う事だ。
春彦は好きだ。
でも幼い頃から同居している春彦は兄みたいな物で―――恋とか愛とかそう言う対象ではない。将来について考えると少し憂鬱になる。恋の一つもせずにこのまま決まったレールの上を歩いて行くのだと思うと、何だかプールに沈んでいるような気分になる事がある。
お香も好きだし古いけれどもずっと過ごして来たお店にも愛着がある。皆をがっかりさせたくは無いから、おそらく玲子はこのまま言われた通りに春彦と結婚して、お店を盛り立てて行く事になるだろう。イマドキ世襲制?なんて揶揄えないくらい伝統を売りにしている商売だから、一人娘の玲子には選択権はない。……と言っても家を出てまで特にしたい事がある訳じゃないからそれを不満に思っている訳では無い。ただほんの少し……モヤモヤするだけだ。
「綺麗ね、お人形さんみたい」
「良い子ね」
「しっかりしているから安心よ」
などと両親も親戚も―――知合いの大人は口々に褒める。両親は厳しいけれど、それは愛情あっての事だ。長く続く伝統を守る為にも、羽目を外したりする事無く時折湧き上がる荒々しい衝動は抑えるべきだって、玲子は理解している。
でも『お人形さんみたい』と褒められる度―――何だか叫び出したくなってしまうのだ。
遊びに来てくれたお客様の前でピアノを弾いて喜ばれると嬉しい、コンクールで上手く弾き切った時は楽しくて自然と笑みが零れる。一所懸命に練習して成果を見せるのはそれなりに充実感がある事だ。そんな玲子を見た人の中には、玲子ちゃんは本当にピアノが好きなのね、なんて言う人もいる。
だけどちょっと違うのだ。玲子は熱心に練習しているのではない―――発散しているのだ。大声で叫んでドタバタと手足を動かして暴れたら―――何事かと周囲は慌てるだろう。だけど防音のきいた部屋の中で、一心不乱にピアノに情熱をぶつける行為を責められる事は無いから。
「春ちゃんは……本当はどう思っているのかな?」
尋ねてしまえば、その疑問を口に出してしまえば、あやふやだった未来が一気に形を持ってしまうような気がして春彦には尋ねられずにいた。三年生の春彦は女子生徒に人気らしい……見た目も整っていて、気配りが出来て優しい。身内贔屓かもしれないが、恋人が二、三人いてもおかしくないと、玲子は思う。勿論春彦からは兄が妹に向けるような愛情しか感じた事は無いし、自分も家族愛以上の物を今後抱けそうにない。
周りのクラスメイトは、何だかいつもソワソワしていて―――あの人がカッコイイとか、彼氏が欲しいとか口々に言い募る。中学生になると途端に皆異性を意識し始めて、そんな感情を知らない玲子は戸惑うばかりだ。そしてこのまま……知らずに結婚して、子供を産んで年を取って行くのだろう。
そんな事をつらつらと考えながら、何とは無しにカセットテープをデッキに入れて、再生ボタンを押してみる。プツプツと……レコードの始まりに聞こえるような音が聞こえて―――一定のリズムを刻むピアノ。絡みつくようなサクソフォンの音色の渦に―――動けなくなった。
楽し気で―――同時に切ないようなメロディ。
聞き終わった後、カセットテープに記された―――意外なほど几帳面な文字を改めて確認する。
『Herbie Hancock/Water melon Man』
「はぁびぃ……ハンコック?すいかおとこ……?」
曲の名前の意図はよく理解できなかった。
けれども、初めて聞いた玲子にもこれだけは分かる―――この曲、ものすごくカッコイイ……!
玲子はそのカセットテープを繰り返し、聞き続けた。ドキドキと胸が高鳴る、こんな気持ち、初めて味わう気がした。
「春ちゃんも、もしかしてこんな気持ちなのかな?」
お香に執着を見せる彼の気持ちがイマイチ理解出来ない、と思っていた。玲子を好きでも無い癖に、お香の為なら結婚しても良い―――なんて冗談めかして笑う春彦を不可解に感じていた。
でも今、少しだけ分かる気がする。
春ちゃんもこんな風に―――ワクワクしているのかな?
自分を抑えられない、黙っていられなくなるような衝動。
だからその他の物はどうでもよくなっているのかもしれない。春彦の冗談を聞いた時、本当は面白く無かった。兄のように慕っている彼が自分を軽んじているように感じ、不快感を抱いたのだ。でもこんな風に春彦もドキドキする物と離れがたく感じているなら―――他の事がどうでも良いって気持ち、分からなくはない。
結局玲子は二日後、忘れ物を黛先生に返せなかった。
「黛先生が忘れたカセットテープ……もう少しだけ、貸しておいて貰おう」
そう言い訳を呟いて―――玲子はまたラジカセから流れるジャズに耳を澄ませるのだった。
お読みいただき、有難うございました。