11.久石君の事情(2)☆
ここから暫く下世話な話が続きますので、苦手な方はブラウザバックを推奨します。
※アルファポ版とは一部内容が異なります。
久石の家は白いタイル張りのマンションだった。実家は職場に通うにはかなり遠いので、賃貸でこの部屋を借りているらしい。
「1LDKって独り暮らしだったら結構広いんじゃない?」
川奈は実家暮らしだが、独り暮らしの友人の家を訪ねる機会はある。みなワンルームで、久石よりもっと狭い部屋に住んでいた。
「うーん、でもかなり古いよ?ただ玄関脇に洗面台があるから気に入ってるんだよね。病院から帰ると、何となく部屋に入る前に手を洗いたくなっちゃうんだ」
「ホントだ。珍しいね、玄関わきに洗面台って」
「あ、どうぞ先に上がって」
「有難う、じゃあお邪魔します」
久石に促され、川奈はパンプスを脱いで部屋に入った。
「えーと、何飲む?麦茶、オレンジジュース、ビール……と、あ、コーヒーも入れられるよ」
「色々取り揃えているのね」
「と言っても大半ペットボトルだけど」
久石は笑って答えた。川奈も笑って返事をする。
「じゃあ、オレンジジュース、お願いします」
「りょーかい」
そう言って久石はオレンジジュースと自分のビール、それからちょっと素敵な木皿に、一口チーズやチョコレート、スナックを盛り合わせたものを一緒にテーブルに並べた。
(うーん、イイ男だなぁ)
端々に滲むさり気ない気遣いも、イイ。少なくとも、川奈が以前付き合っていた彼よりはずっとずっと良い男である。おまけに医者なんだよなぁ、何の因果でそんなスペックの高い男と付き合いを持つようになったのだろうか?と自問する。……すると、走馬燈のように記憶が巡りだす。あ、知合いの紹介か、本当にそう言う出会いってあるんだ。川奈はまさか自分にそんな切っ掛けが訪れるとは思ってもみなかった。社内恋愛か、学校の同窓会で再開した相手と……と、身の回りで出会うくらいが関の山だと思っていたのに。しかも実際、交際まで申し込まれる事になるとは。
ソファに腰掛けてボンヤリと久石を見上げる川奈に、ニコリと久石は微笑みかけ隣に座った。飲み物を勧められ、夢見心地のままグラスに注がれたオレンジジュースを一口飲む。久石も缶ビールのプルタブを上げ、グイッと少し勢いよく口をつけた。それからハーっと溜息を吐き、意を決したように口を開いた。
「返事を貰う前に言わなきゃならない事があるって、さっき言ったけど……」
「うん」
缶ビールを両手で温めるように持ち、堅い表情で呟くように言葉を発する久石の横顔を、川奈は神妙な表情で見つめた。
「怖くて正式に診察を受けてないのだけれど―――多分俺、心因性のEDなんだ」
「いーでぃー……?」
耳慣れない言葉に川奈は首を傾げた。そして一拍置いて、その言葉が正しい綴りを持つ。
「ED?!えっと……え?久石君が?」
「うん」
そう言って久石は寂し気に嗤った。
川奈は恐る恐る尋ねた。
「あの……聞いても良い?昔から……なの?」
「いや、大学時代までは大丈夫だったんだ。その頃付き合っていた彼女とは出来た。だけど研修医になってから……」
久石は其処まで言って口を噤んでしまった。
辛そうに眉を顰める久石を見て、川奈は何だか悪い事をしているような気になってしまった。
「あ!原因は無理して話さなくて良いよ!辛かったら口に出す必要、ないから」
川奈はなるべく明るく言うよう、心掛けた。久石が気にすると思ったからだ。するとそんな川奈を見て、自嘲的な笑みを浮かべた久石が首を振った。
「いや、もし良かったら聞いてくれるかな?川奈さんなら……でも、嫌な話だから胸が悪くなるかもしれないけれど。それに川奈さん、ガッカリして幻滅しちゃうかもしれない、俺の事……」
心細そうな久石を見て、川奈の胸は締め付けられた。(なんだろう、これ。母性本能か何かかな)と思いつつ「大丈夫、聞く」と言ってしっかりと頷き、彼女は久石の次の言葉を待った。
「研修医になりたての頃、飲み会ばかり出ていた時期があったんだ。やっと国家試験も終わって学生じゃ無くなったって言う解放感もあったし、仕事で全然自分が役に立たないって思い知らされてプライドぽっきり折られちゃってさ。声掛けられたら、大抵の飲み会に出てたんだ。単なる憂さ晴らしのつもりだった。そんな時ある飲み会に出たんだ。今思うと合コンだよな、彼女がいるのに合コンに出るなんて―――止めて置けば良かったのに、人数合わせって聞いて二つ返事で頷いた。自分は真面目だから浮気するつもりも無いし、まあ周りがどうだろうと、誰とでも楽しく飲めるから合コンぐらい出ても何て事は無いってタカを括っていたんだ」
昏い表情のまま、久石は低い声で呟くように言った。まるで誰かに懺悔をしているようだ。思いつめた表情と、この話の続きは一体どうなるののだろう……と言う不安感で、川奈はハラハラする胸をギュッと押さえ付けた。
「違う病院に行った先輩から久し振りに誘われてさ。女の子が一杯いて、ほとんどはその病院の看護師だったと思う。その日は結構飲み過ぎて、気付いたらその先輩のマンションで眠ってたんだ。妙な気配で目を醒まして―――そしたら……」
久石が一瞬言葉を切って辛そうに眉を顰めた。川奈は緊張感に圧倒されて、言葉を発する事も出来ずにギュッと両手を握り込む。
「その、スースーして寒いなって思ったら勝手に服をあちこち剝かれてて。それで女の子が寝ている俺の体を触っててさ……吃驚して声も出なかった。そしたら俺が起きた事に気付いたその子が嗤って……そのまま俺に乗っかり始めて」
「なっ……それって、強姦じゃ……」
あまりの事に川奈はそう呟いていた。すると久石は首を振って溜息を吐いた。
「法律では女が男を犯した場合強姦罪は適用されないらしい。強制わいせつか暴行罪?でもそんな飲み会で正体を失くした状態で起こった事……訴えても、逆に相手が何言い出すか分からないし。俺が止めろって言っても相手は嗤いながら無視して行為を続けようとしたんだ。必死で抵抗して引き剥がしたんだけど……でも避妊具も着けないで、無理矢理やられて……最後までやらずには済んだけど、妊娠の確立はゼロじゃない。怖かったよ……なんか人生が終わったような、真っ暗な気持ちになった」
あまりの事に言葉が出ない。川奈はただゴクリと唾を飲み込んで俯く久石を見つめていた。
「その後黙っているのが嘘を吐いているみたいに思えて、耐えられなくて……万が一その女が妊娠でもしていたら迷惑をかけるだろうし……謝罪したんだ、彼女に」
「ええっ……!言っちゃったの?ええと……どうなるか分かる前にって事だよね?」
「うん、今思うと自分勝手だったかも……。俺、彼女の気持ちより自分の気持ちを優先しちゃったんだ。秘密を告白して俺は幾分重荷が減って楽になったんだけど……そんな事を俺に告白された彼女は、相当混乱してしまって―――結局色々上手く行かなくなって別れる事になったんだ」
自嘲気味に笑う久石の顔が痛々しい。川奈はただただ久石の言葉に耳を傾けていた。既に終わった事なのに、混乱しきった久石と彼女の関係にハラハラしてしまいついつい嘆息を漏らしてしまうほどに。
「あちゃー……」
「元々その……仕事が忙しくて会えないって言ってるのに、俺が飲み会ばかり行って彼女を蔑ろにしていたのも悪かったんだ。それで彼女、悩んでいたんだって。俺としては苛々している所を見せたり、相手に当たったりしたくなくて飲み会は捌け口のつもりだったんだけど……。彼女は浮気じゃないだろうかって心配になったり、会う時間も少ないのに飲み会を優先する俺との関係に迷っていたみたいで。そんな時に、実際浮気と言うか……不貞の話を告げられて益々付き合っていけるか自信が無くなったらしい」
「あー、そっか。うん、それは分かるかも」
川奈はその時の彼女の気持ちが分かってしまった。
きっと彼女は不安だったのだろう。この先もずっとモテる彼氏を待って、会えない日々をジリジリ嫉妬して過ごしていかなけりゃ、ならないのかと……考えてしまったのかもしれない。そう、川奈は想像する。
(それに仕事し始めって私もそうだったけど、学生の頃と環境も価値観も何もかも変わっちゃう時期で気持ちも不安定になっちゃうよね。相手の子は学生だったのか仕事していたのか分からないけど、少なくとも彼氏がグラグラしているのは分かる筈)
「可哀想だね」
「うん……」
神妙な顔で頷く久石に、川奈は言った。
「久石君もね!そりゃ、久石君にも隙はあったのかもしれないけれど……怖かったよね。そんな事あったら、私だったら毎晩うなされるよ!勿論、彼女もショックだったと思うから彼女も可哀想だよね。二人ともそんな事が無かったら、今頃普通に付き合ってたんだろうし……二人とも可哀想だな」
「……」
「それで、病気に……なっちゃったの?」
川奈は何だか電話相談かネットの掲示板で回答する担当者みたいな気持ちになってしまう。カッコ良い男性に告白されたと言う浮ついた気分はすっかり掻き消えてしまった。それに気が付かないでも無かったが―――ここまで聞いてしまった以上後には引けないと『毒を食らわば皿まで……!』と言う気分で、彼女は身を乗り出して重ねて尋ねた。
「その時は……暫く彼女ともそう言う雰囲気にならなかったし、その……一人でやる分には問題無かったから、気付かなかったんだ」
「へぇ……」
何となく分かるような分からないような。一応経験はあるものの、女姉妹で育った川奈にはあまりピンと来ない。そんなものかと思いつつ、なら何でEDだって気が付いたんだろうと考えて―――
「あ……!それで、受付の子と上手く行かなかったの?」
ポンッと掌に拳を当てた川奈に向かって、久石は神妙な顔で頷いた。
「いつもニコニコしていて、控えめな感じの子だったんだ。実は職場の看護師の子にもアプローチを受けていたんだけど……あの時の事を思い出しちゃって、相手がどんな人かどうかって事よりただ看護師ってだけで怖くなっちゃって。そんな時優しそうな受付嬢の子に告白されて、看護師の子に言い寄られるのもツラかったから、そっちにすぐ飛びついちゃって。彼女がいれば、諦めて貰えるかと……」
「じゃあ、あんまりよく知らない内に付き合い始めたんだ」
「うん……」
「それで、その……結局その子と出来なくて別れちゃったの?でもよく知らないけど……治療すれば治るモノじゃないの?それって。それにエッチばかりが付き合いじゃないし」
「そうなんだけど……」
久石がまた口籠った。
すっかり脳が相談員モードになってしまった。川奈は腕組みをして久石に向かってしっかりと、先を促した。
「もう、ここまで聞いちゃったらちょっとやそっとの事じゃ驚かないから、全部言っちゃいなさいよ」
すると久石は、心細げな視線を川奈に向けて―――それからコクリと神妙な表情で頷いたのだった。




