1-6
そよ風に揺れるカーテンの対面にあるのがルクリアのベッドだ。そこから数歩とかからない位置に、シックな雰囲気にまとめあげられたクローゼットが鎮座している。そっと取っ手を引けば両開きの扉が左右に広がり、ひとまとめにされたルクリアの衣類が顔を覗かせた。
シワなく伸ばされたワイシャツ、五分袖や七分袖のインナー、細身のデニムに、上品なフリルの付いたロングスカート。ネイビーの暖かそうなモッズコートや武骨な皮製ジャケットまで、多種多様な服がその出番を今か今かと待ちわびている。自分よりも幾分か小さな子供でも着れるようなものを、としばらく思索したルクリアが手に取ったのは、厚手の生地ではあるが今のメリカの季節では少々寒そうなショートパンツと、上から巻きつけて風から足を守れるようにとの配慮で、お気に入りだったボックスタイプのシャツ。上は薄手のタンクトップに、丈の長いポンチョコートを選別した。強引なコーディネートではあるけれど、緊急事態なので致し方ないと自分に言い聞かせるルクリア。
問題はここからだった。絶対にして唯一、身にまとうものとしての至要たる存在。他者から借り受けるなど言語道断、禁忌とすら言えようもの。しかし”それ”が汚いままなどということは許されない、決して。
打開策を探してうんうん唸るルクリアだったが、やがて全てを諦めたような、悟ったような表情を浮かべ一言。
「こんなのただの布。柔らかい布だから」
まっさらで柔らかそうな布を震える手に取り、それらを届けるために風呂場へ向かうルクリアの足取りは少し不安定に見えた
洗面所を兼ねた更衣室のドアを引くと、透かし模様の扉の向こう側で小さな影が湯浴みしている姿が見える。時折何かを探して動きが止まったり、ひねる蛇口を間違えたのか驚きの声が漏れ出ていたり、そんな様子を年相応に可愛らしいなと思いつつ、手にした衣類をそっと扉の前に置いてルクリアはその場を後にした。ひとまず細かいことは忘れて、自分のためにも料理を完成させよう。キッチンから微かに香る朝食に誘われるように、食いしん坊なルクリアのお腹は思考を乗っ取って食べ物のために身体を動かす。
「おい、この服は着てもいいのか?」
「もちろ……んいいから着てはやく今すぐ! お願いだから!」
完成した野菜たっぷりの彩り豊かなスープを、ルクリアがリビングの中央にある木目調のローテーブルへ運んでいる時に、不意に後ろから声がかかる。内容でこれから先なにが起きるかを大体察知してしまったルクリアだったが、それでもつい、冷静でいられなかったようで、続ける声のトーンが上がってしまう。
綺麗に洗われて本来の輝きを取り戻した、さらさらの流れるような銀色の髪。多少の恥ずかしさはあったのか、衣類を身体の手前で抱きしめるようにして、風呂場でのぼせたようなつややかなりんご色の頬でこちらを見上げる少年。ルクリアが見てしまったのはそんな光景だった。風窓から差し込む朝陽がなければ、いろいろと危なかったかもしれない。背後で聞こえる衣擦れの音を聞きながら、今にも飛び出しそうな暴れる心臓を押さえつつも、せっかく作ったスープをこぼさないようにそっとテーブルへ。丸鍋がテーブルに着地する頃、少年もすっかり着替えを終えていた。
「へえ~、ちょっとぶかぶかだけど似合うじゃん。着れなくなったお古だけど取っておいてよかった」
落ち着かなさそうにしているが、与えられた衣服が良く似合っている少年の姿に感心の声を上げるルクリア。その言葉に嘘偽りはなかったが、やや曇った表情で続ける。
「ところで……さ、あの、窮屈だったりしない……かな? 動きづらかったり、痛かったり、大丈夫かな」
「べつに、へいき。なれない服だから動きにくいけど」
ルクリアの本意は理解されなかったようで、ひょこひょこと動くふわふわの耳と、対照的に鋭さを感じさせる尻尾が所在無さげに右へ左へと揺れる。風呂で綺麗になったからか、或いは食べ物の匂いのせいか、先刻までのルクリアに対する突き刺すような敵意はなくなり、初対面の相手に対する警戒心が残る。しかしそれも、スープの放つ誘惑には勝てなかったようだ。
「これ、たべてもいいのか」
「もちろん。ほらほら、そこ座って」
にっこりと笑顔を取り戻したルクリアは少年を自分の対面に座らせ、底の深い小皿にほくほくと湯気の立つスープを取り分ける。ごろっと栄養をその身にたくわえた芋類、芽吹きの強さを分け与えてくれるカラフルな木の実、水で戻せばそれだけで香り豊かな表情と塩気を付け足してくれる干し肉。素材を生かした薄味の、けれど誰にでもすんなりと食べられるようなご馳走だ。
「それで、オレくんのことはなんて呼べばいい?」
「モモ……モモでいい」
「おっけ~モモくんね!わたしのことはルクリアでも、リアでも、好きに呼んでくれていいよ」
モモは何かが腑に落ちないような面持ちで、ざく切りの野菜を頬いっぱいに詰め込みながら咀嚼する。そしてそれを一気に飲み込んでから一言。
「親切なおばさん」
「はは~んなるほどなるほど。もうごちそうさまと言う事でよろしいですね?」
ルクリアの言葉にモモは一瞬、意表を突かれたように目を開いて物言いたげにもごもごと口を動かした後、まだスープの入った小皿を抱えながらそっぽを向く。そして、
「ルクリア……さん」
と、心底嫌そうに口にした。
まだ21歳だっつーの! とひとりぶー垂れるルクリアを横目に黙々と食事を続けるモモ。食器が当たる音とスープを口に運び嚥下する音だけが響くリビング。普段はひとりで食事を済ませるルクリアにとっては新鮮な光景だ。多少の無礼は大目に見つつ、モモが食事を終えるのを見計らって本題に入ることにした。