1-5
どこか遠くで、小鳥のさえずりが聞こえる。ひんやり冷たい空気と、目覚ましのようにまぶたに差し込んでくる光。ここは……ここは――
「へっくし! さむっなにこれ! わたしなんでこんな格好で!?」
深い眠りから覚めたルクリアの開口一番がそれだった。目を開けるとそこに広がるのは自室の天井、ではなくリビングの木貼りの床。下着姿で一晩をそこで過ごした肢体は氷のように冷たく、その上には申し訳程度の防寒具のように薄い布切れがかけられていた。そして家主を寒さから守る肝心の暖炉は、とうに燃え尽きて沈黙を保つのだった。そのまま視界をぐるりと反対側へ移すと、そこにはぼろ布を纏い、膝を抱えて座り込んだままルクリアを見つめる、もとい睨みつけているような表情の子供。
「うわあああぁ誰! びっくりした!」
素っ頓狂な声を出し、跳ねるように立ち上がるルクリア。その声に驚いた小鳥達が一斉に飛び立ち、羽ばたく音がこだまする。
「誰って、あんたがここに連れてきたんじゃないのか?」
小さい、しかし怖気づかない凛とした声で、むすっとした面持ちの子供は答えた。幼いながらもきりっとした双眸は、しっかりとルクリアを捉えて離さない。逆にルクリアが身じろぎするほどだ。
ひとしきり無言の見つめあいが続き、ようやくルクリアは自分の置かれている状況とこれまでの記憶が噛み合ったのか、小さな吐息を漏らす。そして同時に、いま、この瞬間にも、自分がどんな格好をしているのかということに意識は戻り、その視線は小刻みに震える両手から、今にも思考する上半身を置いてこの場から逃げ出しそうな両足へ、しばし虚空を満喫した後、もう一度落とした先にある布切れで止まる。
「うわああああん!」
怒声とも悲鳴とも取れない、割れた風船が最後に搾り出す叫びのような声と共に、布切れがひらひらと降参の証として宙を舞う。動かない獲物をぱくりと飲み込む大きな口が如く子供の頭に覆いかぶさり、しっかりと役目を果たした。
「……これ、もうとってもいいか?」
また数秒の沈黙を置いて子供が口を開く。その目線の先で、音速で衣服をまとうルクリアの影を捉えながら、無造作に折り重なった布を通してもしっかりと相手に伝わる程度の声で。
「ごめんごめん。わたしのほうがびっくりしちゃって。――わたしはルクリア。ルクリア・フェアヘッドだよ。キミはなんて名前?」
「チッ……オレは……」
優しく目隠し代わりの布をつまみ上げ、純真な瞳で子供を見つめるルクリア。対して子供は敵愾心に溢れた目色を持って返事とする。敵意全開。さながら朝食を奪われた飼い犬のよう。髪を逆立たせ、地を掴む爪先にも力がこもる。
「さ、少年よ! まずはお風呂! それからご飯! お姉さんは一緒に入れないからご飯作ってるね!」
険悪な空気を察してか、あるいは全く察することができないがためか。ルクリアは陽気に振舞って見せる。まだ名前も知らない混血種の少年の手を、それはもう半ば無理やり取って立ち上がらせると、風呂場へと案内するために華奢な背中を両手で押していく。綺麗なままのリビングを出て、埃一つない木目の映える短い廊下の壁を手づたいに歩くと、天窓から朝陽が眩しい小作りな風呂場の扉が見えた。
「そこの赤い色の付いた蛇口を回せば、勝手に暖かいお湯が出てくるの。それから――」
「だいじょうぶ……わかるよ」
重力に負けてしおらしく下を向く少年の耳と尻尾が、諦観すら伺わせる。多少の心苦しさを覚えるルクリアだったが、なによりもはやく綺麗になって、美味しいものを食べてもらいたいという思いが勝った。逸る気持ちを抑えつつ、簡単にタオルの場所を説明してから引き戸を閉める。温水の撫でる音をその耳で聞き取ると、ほっと一息。
けれどここで休んでいる暇はない。もと来た廊下を戻り、リビングの一角にあるキッチンへ。少し背伸びをして風窓を開け放つと、ひんやりとしてはいるものの芽吹きの暖かさを孕んだ薫風が走り抜ける。
寒暖に富む気候を持つメリカは、三月にはいると暖かな日々に恵まれ、緑一色だった平原は色とりどりな天然のアートへ表情を変えていく。毎年多くの人が楽しみにして待ちわびている中、ルクリアもまたそれを心待ちにするひとりだ。
「うーんさむい! 頼むクックン一発で点いてくれ!」
クックンと呼ばれた薄い四角形の道具は、側面についた丸みを帯びたノブをルクリアが回すと、待ってましたと言わんばかりに自身の天面に仄かな桃色の魔法陣を展開させる。くるくると回る円陣は少しずつ滲んで空気に解けていき、あるところでぴたりと止まると、揺れる炎のように桃色の光をたゆたわせ、それはやがて熱を帯びていく。
「さっすが~! やればできる子! えらいえらい。でもさすがにそろそろタンクに魔力、補充してあげないと」
幼子を褒めるように声をかけ、魔力残量が尽きかけていることを知らせるアラームを鳴らす円柱状のタンクを横目に、鉄製の丸鍋を取り出しクックンの上に乗せる。手を伸ばせばすぐに届きそうな位置にある戸棚から、種類ごとに整頓された食材達を適当に取り出し、同じく戸棚から取り出した小ぶりなナイフで手ごろな大きさに切り分ける。手馴れた動作で丸鍋の中に小分けになった食材を放り込み、備え付けの蛇口から少量の水を注ぎ込んだ。軽快な音を立て泡を踊らせる様子を確認して、丸鍋にぴったりとはまる木製の蓋をしたルクリアは、少年の着替えを用意していなかったことに思い至った。
再びリビングを背に廊下へ、突き当たりにある自室へのドアを開く。眩いばかりの朝陽は水玉模様のカーテンに遮られ、漏れ出た輝きがおぼろげに、少し埃臭さの残った部屋を照らし出していた。ルクリアはむずむずする鼻の意識を逸らしながら、一気にカーテンを開け放つ。閃光のように駆け抜ける朝陽に耐え切れず、思わず閉じるまぶたと連動したかのように出るくしゃみ。勢いで鍵を外して窓枠を押せば、澄んだ風が流水のように駆け抜けた。