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先の轟音があったにも関わらず、周りの民家では騒ぎもなくとても静かだった。しかし、ルクリアにはそんなことを気にかける余裕はない。
深夜の街は、残酷なほど冷たい空気をルクリアに突きつける。玄関を出たその瞬間から、濡れたままの身体が、髪が、ナイフのような冷気に晒されて、思わず一瞬身がすくんでしまう。
「なんだってこんな寒いの!」
そういえば、初めてモモと会った日も、こんな冷たい風が吹いてたっけ。きっと今だって寒い思いをしてるはずだから……。
「お願い……。モモを救う力をわたしに……っ!」
ルクリアを中心に浮かび上がる桃色の魔法陣。それは普段よりも、ティルと模擬戦をしたあの日よりも大きく、強く輝いて、寝静まった街路を染める。
身体中の組織が軋みをあげて、放出した魔力を魔法に変えていくのを感じながら、人間の限界まで到達した能力の歯車をこれでもか、というほどに強化して巻き上げる。魔法は想いの具現化だ。いま、誰よりもこの瞬間、モモを助けたいという想いだけが、ルクリアに力を与える原動力だ。
身体強化の魔法で身体のコーティングが済んだことを、握りこぶしを作って確認する。次は追跡だ。街灯の下、ぽつぽつと続く血痕だけを頼りにして、ただ力任せに石畳を蹴りながら疾駆する。
気がつけばいつの間にか、地面は舗装のされていない砂利道に。一瞬、見覚えのある何かが視界に入り、はっと弾かれたように顔を上げると、そこは商店街と城壁への大通りを繋ぐ、砂っぽい路地。古びた倉庫や資材の積み上げられた空き地が、寂しげな月明かりに照らされている。そして道端に置かれた、雨水を貯めて水面に月を映し出す、錆びついた空き缶。
――忘れるはずもない。初めてモモと出会った場所。
「何度だって、助けるんだから……。わたしが……必ず……ッ!」
無意識のうちに漏れ出る言葉。それとともに脳裏に浮かぶのは、ここで倒れていたモモの姿。
怯えた目でわたしを見るモモ。敵意を剥き出しにしていたモモ。お風呂を嫌がって逃げ回っていたモモ。初めて食べる料理に目を丸くしていたモモ。人見知りをして最初はティルとも話すことができなかったモモ。小さな小さな魔法を使えるようになったことを喜んでいたモモ。天使みたいな寝顔だったモモ……。
堰を切ったように駆け巡る、モモと過ごした短い日々の思い出。同時に、退屈ではない非日常を望んでいたことへの後悔。それはあっという間に思考を埋め尽くし、溢れる記憶を押し流さんとばかりに、涙となって頬を伝った。
「ぐすっ……。泣いてる暇なんか、ないんだからぁ」
鼻をすすり、ジャケットの袖で乱雑に涙を拭う。幸か不幸か、一度暗いところで立ち止まったおかげで、夜目がきくようになってきた。雲一つない夜空から差す月明かりも相まって、先ほどまではぼんやりとしか見えていなかった血痕もはっきりと見える。
ルクリアは爆風と共に桃色の光を弾けさせ、再び夜道を駆ける。路地を走り抜け、街灯の眩しい大通りへ。時間のせいか人ひとり歩いていないのもまた、不幸中の幸いだ。
血痕は点々と、しかし時折立ち止まっていたかのように小さな血だまりを残して続く。大通りを横に逸れ、細い林道を抜ける。地面に気を取られるあまり、道に飛び出した木の枝で顔や手に切り傷を作ってしまうが、ルクリアは痛みに顔を歪ませながらも、決して立ち止まらない。
「どうして……ここに……?」
ずっと夢中で駆けてきたせいで気づかなかった。見覚えのある道、景色。
その建物が目の前に姿を現すと、ルクリアは息切れをしながらも思わずその疑問を声に出す。
古城のような佇まいの洋館。以前一度だけ見た時には、飾らない威厳のある雰囲気を放っていたそれは、深夜の月明かりの中では全く別の表情を見せていた。手入れのされていた庭は漆黒を湛えるように足元を覆い、目線を上げれば、色鮮やかだったステンドグラスの窓は怪しい光を浮かべる。木漏れ日が描き出していた壁の模様は、月明かりに暗い影を落として、より一層不気味さを増幅していた。
連なる血痕は洋館の中へと続いていた。ここで立ち止まっていても仕方がないと、ルクリアは意を決して庭道を一歩、また一歩と前へ進む。
「あの……すみません! クリスさん! いますか、無事ですか!?」
玄関の扉を叩きながらルクリアは洋館の主の名を呼ぶが、返事は聞こえず、その代わりとでも言うように吹いた風が木々を揺らし、まるでルクリアを歓迎するように葉が擦れる音を立てる。
「後で謝ればいいよね……」
身体強化の状態なら、普通の鍵の扉程度ならば力づくで開けられる。人の家の玄関を破壊するのはあまり褒められたことではないけれど、事態は一刻を争う。
ルクリアは玄関扉に手をかけ、思い切り力を込めて引っ張るが――
「うわっ!」
ルクリアの予想に反し、扉の鍵は空いていたようだ。勢いのあまり、場に似つかわしくない驚きの声を上げてしまったルクリア。
開いた扉から顔を覗かせて、明かりのついていない中の様子を確認する。入り口は広間になっていて、立ち入ったものを歓迎するきらびやかなシャンデリアと絨毯が目を奪う。このフロアは恐らく最上階へ吹き抜けなのだろう。天窓から差し込む僅かな月明かりが今はありがたい。
広間の正面突き当たりには、左右に伸びる階段。血痕が続くのはその右手側だ。
この洋館に入った頃から、ルクリアは違和感を覚えていた。どうにも身体が重い。風邪っぽいような、力が抜けるような……。風呂上がりそのままに外へ飛び出してしまったせいだろうか。
しかし、モモを見つけ出すまで絶対に倒れるわけにはいかない。固い決意とともに身体の中の魔力を練り上げ、研ぎ澄ませて、不調を補えるよう万全の準備を整える。
今すぐにでも大声でモモとクリスの名を呼びたいルクリアだったが、それでは間違いなく魔獣に自分の居場所を知らせることになる。正面切ってあんな凄まじい爪痕を残していく相手とやりあうのは、絶対に得策ではない。
逸る気持ちを押さえ、天窓から差し込む月明かりだけを頼りに、絨毯を濡らす標を追う。階段を上り二階へ。まっすぐに伸びた広い廊下と、それに連なる扉達がルクリアを出迎える。血痕はその一つの扉に続いていて、ルクリアが思わず身体に力を込めつばを飲み込んだ時、コツコツと背後から聞こえる足音。
「誰っ!」
「ようこそ、お嬢ちゃん。……と言うには少し、つらい状況かな」
後ろを振り向き、いつでも拘束魔法を撃てるように身構えるルクリアだったが、足音の主が月明かりの下へ姿を現すと、張り詰めた緊張の糸が切れるようにその場にへたり込んでしまう。
ルクリアに声をかけたのは、魔獣ではなくクリスだった。この状況下でなお、余裕のある紳士的な立ち居振る舞いだが、綺麗に仕立てられた服は血でべっとりと汚れ、表情もやや硬い。手には魔導銃のようなものを持っているが、その形状は明らかに別物だ。
「け、怪我してるんですか!? すごい血が!」
「あぁ、これは私のものではないから大丈夫だよ。お嬢ちゃんこそ、ひどい格好じゃないか」
「わたしは大丈夫です……。それより、クリスさんの血じゃないってどういうことですか? ――モモは……! 銀髪の小さな女の子見ませんでしたか!!」
立て続けに質問するルクリアに苦笑を返しながら、クリスは淡々と答える。
「この血は魔獣のものだよ。いいところまで追い詰めたんだが、逃げられてしまってね。それから、モモちゃん、だったかな? 魔獣が連れてきた銀髪の小さなお嬢ちゃんは、気を失ってはいるが無事だよ。三階の廊下の突き当りで寝かせているから、一緒に連れていってあげてくれるかな」
クリスの言葉に、ルクリアはようやく安堵感を覚える。と同時に、手負いとは言え魔獣が闊歩する中、初老のクリス一人に任せてしまっても大丈夫なのかと言う不安が頭をよぎる。その事をクリスに伝えると、クリスはにっこりと笑いながら、
「私の趣味は狩りだからね。ただのお爺さんよりは、戦えると思うよ」
と、手にした銃を肩に担ぎ上げてみせた。




