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「ふああ……今何時なんだろう」
ルクリアは、立ち上がり小さく伸びをしながら壁に掛けられた時計を見る。木枠作りの質素な四角い時計の長い針は六を、短い針は十一を指していた。どうやら随分長いこと寝てしまったらしい。窓の外を覗けば、もう明かりを落として就寝している家もちらほらと見える。
「お腹減ったなぁ。でも先にお風呂入っちゃおうかな」
誰に返事を期待するでもなくひとり言を呟き、寝室へ向かい着替えを用意する。そのまま浴室へ向かってしまっても良かったけれど、自分が風呂に入っている間にモモが起きたら、きっとお腹が空いているだろうし待たせておくのも可哀想だ。
我ながら気遣いの出来るいい姉だな、と自画自賛しつつ一度リビングへ戻り、前に女将から貰った保存のきく細長いパンをキッチンの引き出しから取り出して、クックンで炙って加熱する。焦げ目といい香りがついたら、適当な大きさに切り分けて小皿に盛り付けておしまいだ。些か手抜き感が凄まじいけれど、こういうときのために取っておいたものだからこれでいいのだ。
ルクリアはテーブルの上に小皿を置いて、その足で浴室へ向かおうとするが、匂いにつられてか、或いは音に反応してか、モモが目を覚まし身体を起こす。眠そうに大あくびをして目を擦るその様子は、まるで猫のようだ。
「起こしちゃった? ごめんね」
「へいき。……これのにおいか」
「えへへ~……。せっかくだし一緒にたべよ!」
小皿の中身を覗き、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐモモ。混血種と言うだけあって、人間よりも音や匂いに敏感だったりするのだろうか。
せっかく起きたモモをまた一人にするのも忍びないと思い、ルクリアは風呂を後回しにしてモモと一緒に食事を取ることにした。風呂上がりに何かしら食べるつもりではいたので、これはこれで結果オーライだ。
「モモ、最近よく本読んでるけど、読書好きになった?」
かなり遅い夕食を咀嚼しながら、ルクリアはふと気になったことをモモに訊ねる。店でも家でも、モモは最近ずっと絵本を読んでいる。というよりは、開いてその中をずっと見つめている。
「もじ……おぼえたかった。べんきょうなんてさせてもらえなかったから」
絵本を横目に、ぽつりとモモはこぼす。
なるほど、だから面白そうな小説ではなく、あえて絵本を読んでいたのか。読んでいる最中もあまり楽しそうではなかった理由も納得だ。モモは絵や物語を楽しんでいたわけではなくて、ただそこにある文字をひたすらに覚えていたのだから。
「大丈夫だよ。モモならきっとすぐに覚えられるよ。文字も言葉も、魔法も、ね」
ルクリアの言葉にモモは小さく頷き、パンを食べ終わって空いた手をまた小皿に伸ばす。時折食べかすをこぼしながら、口いっぱいにパンを頬張るモモ。そんなに急いで食べなくても誰も横取りなんてしないんだけどな、とルクリアは思うが、それだけモモが今まで生きてきた環境が壮絶だったということなのだろう。もしも自分がモモと同じ立場だったら、こんなに強かに生きていけるだろうか。
簡素な夕食を食べ終わり、満腹感と再び押し寄せる眠気が身体を拘束する前に、今日のことを終わらせておこうと立ち上がる。と言っても、後は一日頑張った身体を風呂で綺麗にして寝るだけだ。
「モモ、わたしお風呂入ってくるけど、モモはどうする?」
「きのうはさきにはいったから、きょうはあとでいい」
ルクリアの問いにモモはそう答えると、先ほどまで枕にされていた絵本を手に取り、適当なページを開いてじっとその中身を見つめる。
気を遣ってくれたのだろう。本当はモモには先に休んで貰いたいけれど、その気持ちを無碍にするのは粋じゃない。それならば、とルクリアは、モモの身体が冷えないように、毛布をかけて待っているようにと言ってから、リビングで勉強に励むモモを置いて浴室へ向かうことにした。
狭い脱衣所で服を脱ぐ。紺色のジャケット、七分丈のズボン、襟に施されたワンポイントの花柄刺繍がお気に入りな真っ白いブラウス。そして、その日の気分で色を変えてつけるリボンタイ。いつも似たような格好だけれど、動きやすい格好が一番だ。
「そろそろ衣替えかな~」
脱いだ服を綺麗にたたむのも面倒で、ごちゃっと丸めたまま脱衣所の床に放り投げる。明日は他の服を着ればいい。これは朝にでも洗ってあげよう。
「ううぅさぶっ!? なにこれ死んじゃうよ」
浴室に入ると、真冬のような寒さがルクリアの身を撫ぜる。春が近づいたとは言え、まだ夜は随分冷え込むようだ。思わず口をついて出る悪態に自分で苦笑しながら、シャワーの栓をひねる。
最初の一瞬は冷水が流れ出るが、程なくしてそれは温水へ。もうもうと湯気を立てながら、もう身体に当てても大丈夫だと合図する。
「あぁ~暖かい。生き返る~」
誰かが返事をしてくれるわけでもないが、ついつい言ってしまうひとり言は、もうルクリアの癖のようなものだ。ただ、最近はモモが一緒なので、ひとり言のつもりがひとり言ではなくなっていたりすることもある。
浴室一杯に広がる湯気と、シャワーの音。極楽気分で頭のてっぺんからお湯をかけると、水分を吸った髪の重みが頭にのしかかる。ティルにも褒めてもらった、長くて綺麗な髪の毛。しかしこの重みだけは、なかなかどうして慣れることができない。
シャワーの横に置いてある魔法で練られた石鹸を泡立てると、ふんわりとした甘い香りが辺りに広がる。この香りに包まれて身体を暖める時間は至福のひとときだ。
しかし、そんなルクリアのいつも通りの、素敵で夢心地な時間は、この日に限ってはいつも通りとはいかなかった。
唐突に家中に響き渡るモモの声。風呂場からでも感じ取れる、普段のモモが一度も発したことのないような、怒気と恐怖を含んだ声。その直後、金属を引き裂くような痛烈な音と共に、大きな振動が一回、ルクリアの身体を襲う。
「モモ!? どうしたの! 返事してモモ!」
ルクリアは浴室のドアを開け、そこから顔を覗かせながらモモを呼ぶが、モモからの返事はない。先ほどの暴風のような騒がしさは、今は嘘のように静まり返っている。
「まさか……!」
不意に頭をよぎるのは、人喰いの魔獣。何かの間違いであってくれと舌打ちを漏らしながら、タオル一枚を片手に、びしょ濡れのままリビングへ急ぐ。普段はあっという間の浴室とリビングの廊下がこんなに長く感じたのは、きっと今までで初めてだ。
「なに……これ……。どうなってるの……? ――っ! モモは……モモ! どこ!!」
リビングに通じる扉を勢いのまま乱暴に開けると、そこに広がっていた光景は、今この場が自宅のリビングであるということを疑ってしまうほど凄惨なものだった。
テーブルは吹き飛ばされたように部屋の角に転がり、その周囲には一緒に飛ばされたのであろう食器が、見る影もなく粉々に砕け散っている。床には巨大な爪で引っ掻いたような痕が幾つも残され、それに巻き込まれたか無残に引き裂かれた絵本と、そのページの破片を染める真紅の液体。点々と連なる液体を目で辿ると、それは玄関の方へと続いている。
「嘘……でしょ……。どうして……どうしてこんな」
ルクリアは茫然自失として、ただ目の前の光景を見つめることしか出来ない。何度も呼んだモモの名前は、返事のないままに荒れた室内を反響して消えていく。これだけ呼んでも返事どころか物音一つしないということは、恐らくモモは外だ。手負いの魔獣を追ったのか、或いはその逆か。
まだ近くにいるかもしれない、今追えば間に合うかもしれない。頭でそう思うよりも先に、無意識に身体は動いていた。急いで脱衣所に戻り、脱いでそのままだった服を床から拾い上げ、濡れたままの身体を気にすることなく着る。ブラウスやズボンがまとわりついて不快だと、身体中の皮膚が悲鳴を上げるけれど、そんなことは些末な問題だ。
「絶対に助けるから、待ってて」
髪から落ちる水滴のように、ぽつりぽつりと心を蝕む恐怖心。それを振り払うように、自分を奮いたたせるようにルクリアはひとりごちて、開け放たれたままの玄関を飛び出した。




