3-4
翌朝、ルクリアは胸の上に感じる重圧感で目を覚ます。うめき声を上げながら片目を開けると、カーテンの隙間から漏れた朝日が寝ぼけた頭を刺激する。そのまま視線を下へ移すと、目の前一杯に広がる銀色と、なにやらふさふさもふもふとした物体。
まだはっきりとしない意識の中で、それが何なのかを確かめるべく右手を動かそうとするが、まるで金縛りにあったかのようにピクリとも動かない。これは一大事、どうしたものかと思考を巡らせているうちに徐々に覚めていく眠気。ある程度意識も覚醒してきたところで、ようやくルクリアは今置かれている状況を理解した。
「モモ~……重いぃ……」
思わず口をついて出る言葉。
結局、あの後モモは一緒に寝てくれたのだが、存外寝相が悪かったらしい。今思えば、夜中に何度か頭を叩かれて起きたような気もするし、その度に毛布をかけ直したりしていたせいか、あまり疲れが取れた感じがしない。しかしまあ、これはこれで悪い気はしないのでもうしばらくこうしていよう、とルクリアは無意識に笑みをこぼす。
昨晩イアンから聞いた魔獣の情報が、まるで嘘だったかのような晴れやかな青空。カーテンの隙間からそれを眺めていると、ゆっくりとモモの手がルクリアの顔のほうへと伸びてくる。一体何をする気なのかとそれをじっと見守っていると、徐々に手は顔に近づいてきて……。
「ふが……。モモあんたなんてことすんの!?」
あろうことか、モモの手はいきなりルクリアの頬を鷲掴みにした。そしてそのまま横に引き延ばそうとするのを、なんとか空いていた左手で阻止する。頬を鷲掴みにした当の本人は、何事もなかったようにすやすやと寝息を立てて、可愛らしい寝顔を晒している。
「小さな可愛い猛獣め……」
ルクリアはひとりごちて、モモが起きないようにそっと抱くようにして自分の身体からベッドの上に抱き下ろすと、朝から大変な目に遭ったと小さく息を吐いた。
「おはようルクリアちゃんモモちゃん! どうしたの? ほっぺが赤いよ」
朝の支度を済ませ、いつも通り自分の店へモモと共に訪れる。ちょうど店も目の前というその時、朝から元気なハリのある声でルクリア達を呼び止めるのは、隣のパン屋の女将。
「おばちゃんおはよ~。ちょっとね~、毛布につねられちゃって」
「なんだいそりゃ。ほら、これでも食べて元気出しな!」
女将は細かいことは気にしないといった風に、店頭に並んだ揚げパンをルクリアとモモに渡す。揚げパンはまだ仄かに暖かく、こんがりとしたいい香りと、それに混じってどこか香辛料のような匂いも漂わせている。
「たべてもいい?」
「ああ食べな食べな! ちょっと辛いかもしれないけど、身体暖まるよ!」
「ありがと」
モモと女将のやり取りを、貰った揚げパンにかじりつきながら見ていたルクリアは、ふと昨日の夜のことを思い出し、女将もその話を聞いたかどうかを訊ねてみる。
しかし女将はそれを聞くと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。それは間違いなく、今初めて聞いたという答えの表れだろう。
「そんなの初めて聞いたけど怖いねー。昨日は新作のパンを試したくて、店閉めた後もずっとここにいたんだよ。いやー、ルクリアちゃんからそれ聞かなかったら、今晩はその魔獣の餌になってたかもしれないね!」
全然笑い事ではないのだが、女将は快活に笑いながら冗談を飛ばす。そんなところも彼女のいいところなのだけど、その度にルクリアは苦笑いしか返せないのだった。
「笑い事じゃないよ~。なんかおばちゃんなら逆に魔獣やっつけちゃいそうな気もするけどさ~」
「あぁ、任せなって。おばちゃんって生き物は、そんじょそこいらの化け物より強いんだから」
そう言いながら力こぶを作り、それを叩く女将を見ていると、本当にその辺の魔獣なら倒せそうだなとルクリアは思ってしまうが、口に出したらそれはそれで怒られそうなので黙っておく。
気をつけてね、とお互いを気遣い、女将はパン屋の中へ、そしてルクリア達は自分の店へと向かう。
裏口の鍵を開けて店に入ると、普段と変わらない店内がルクリアとモモを出迎えた。見慣れた光景に安堵感を抱きながら、店頭のシャッターを押し上げて、看板を表通りに出せば開店の合図だ。
開店からしばらくした頃、ルクリアが店の奥で魔力手形で使う用紙の整理をしていると、何かに気づいたようにモモがソファーから立ち上がる。
「モモどしたの~? お客さんきた?」
「うん。ティルシーさんがきた」
「ティルが? なんの用だろう……」
ティルがこの店を訪れることはあまり無い。それだけに、なにか大切な用事なのだろうかと、ルクリアは一旦作業を中断して店頭へ顔を出す。
「ティルどうしたの~? 店に来るなんて珍しいじゃん~」
「リアちゃんモモちゃんおはよー。ちょうど近くを通ったから、せっかくだし顔だけ出していこうかなーって。迷惑じゃなかった?」
朝日に煌めく黒色の制服に身を包み、遠慮がちに笑うティル。相変わらず好き勝手に着崩した制服は、威圧感どころか安心感すら覚えさせる。
「もちろん! さ、入った入った」
「あーごめんね、今日はこれから仕事なの。ほんと、ただ近くまで来たから寄っただけなんだ」
ルクリアが店内のソファーにティルを座らせようと手を引くと、ティルは申し訳なさそうに謝り、誘いを断る。
「仕事って、やっぱり人喰い魔獣の……?」
「人喰い魔獣……? ううん、私はこれから崩れちゃった城壁の修復をする手伝いに行くんだー。リアちゃん、魔獣って?」
ルクリアの問いに対するティルの返答は、予想外のものだった。ルクリアは驚きを隠せずに、昨晩の出来事をそのままティルに伝える。
「うーん、私昨日は非番だったから聞いてないだけかなあ。修復が終わって詰所に戻ったら訊いてみるね」
何かが腑に落ちないような表情をしながらも、ティルは言葉を続ける。
「いい? リアちゃん。絶対に面白半分で探したりしようなんて思っちゃダメだからね。私達から警告が行くって事は、かなり危険ってことなんだから。そういうのは私達に任せて、ね?」
「わかってるよ~。わたしだって食べるのは好きだけど食べられるのはゴメンだもん」
「それなら良し。モモちゃんもね」
ティルはルクリアとモモにしっかりと釘を刺し、にっこりと笑う。柔らかい態度で無駄に不安を煽らない、と、商店街で働く人達の間でもティルが人気な理由がよくわかる。
それじゃあね、とティルは手を振って店を後にする。その後ろ姿は、どこにでもいそうな華奢な女性だ。そんな彼女が、ここメリカを守る部隊のトップだというのだから、人は見た目によらないというのは本当なのだろう。
その後は普段通りの商店街だった。特に用事がなくても雑談をしにくる人や、手紙を届けてほしいと頼みに来る人。モモは子供向けの絵本を読みながら、退屈そうにあくびを繰り返している。
モモを連れ帰った時はどうなるかと思っていたが、慣れてしまえばなんてことはない、いつも通りの退屈で平和な時間だ。人喰いの魔獣だって、きっとティル達がすぐになんとかしてしまうのだろう。
自分は数年後には一体何をしているんだろう、とルクリアが遠い想像もできない未来に想いを馳せているうちに、商店街はまた夜を迎える準備に入る。ティルにしっかりと釘を刺されたこともあり、暗くなってから帰るのはあまり安全とは言えない状況なので、少し早めの店仕舞い。
帰り道の商店街や街路にはまだ人が多く、もうすぐ陽が落ちるのに大丈夫なのかとルクリアは心配するが、一人ひとりに注意して回る気も起きないので、モモと共に帰宅を急ぐ。
「いや~今日も疲れた。ティルは大丈夫かなぁ。怪我とかしてないかな」
無事に自宅へ帰り着き、リビングでテーブルに上半身を預けてルクリアはひとり言。ふと暖炉の上の窓から見えた空は、もうすっかり夜の色だ。
今頃は、魔獣がどこかで獲物を探して徘徊しているのだろうか。それとも、もうティル達が見つけて倒してしまっただろうか。そんなことを考えているうちに、徐々に襲い来る眠気。
夕飯を作らなくては、などと頭では思っていても、身体は全く言うことを聞かない。視界の端で揺れるモモの髪。名前を呼ばれているような気もするけれど、もう声も出せないままにまぶたが落ちてくる。そうしてそのまま吸い込まれるように、真っ暗闇の世界へ……。
「はっ! 寝てない! 寝てません――ってあれ……」
どのくらいの時間が経っただろう。ルクリアがぱちりと目を開けてテーブルから身体を起こすと、重い音を立てて背中から何かが落ちる。その感触に驚いて後ろを見ると、そこに落ちていたのは普段自分が寝るときに使っている毛布だ。
なぜここに自分の毛布があるのかと疑問に思いながらも視線を前に戻すと、そこには絵本を開いたまま、それを枕にして眠りこけるモモの姿。
「モモ……ありがと」
モモを起こさないように、ルクリアはささやくようにお礼を言って、つい先程まで自分にかけられていた毛布をそっとモモにかける。これはきっと、寝てしまった自分のためにモモが持ってきてくれたのだろう。普段は素っ気ないしあんまり甘えてもくれないけれど、きっと根はいい子なのだ。