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「あ~! 前に食堂で挨拶してくれた人! どうしたんですか? なんだか慌ててるみたいですけど」
ようやく記憶の糸が繋がったルクリアが、イアンに用件を訊ねると、イアンはひどく慌てて、そしてどこか怯えるような様子で答える。
「じ、実は、この街に人を喰らう魔獣が入り込んだらしいんです。な。なので注意喚起を……」
言葉をつまらせながらそう告げるイアンの顔色は、夜の暗さでもわかるほどに恐怖一色だ。ギュッと握りしめられた両手と、強張った肩が自体の深刻さを物語る。
「えっ!? それってかなりヤバいんじゃ……」
「はい。幸い夜行性らしく、日が落ちるまでは活動しないそうですから、夜だけは家から出ないようにと」
言葉だけではあまりに実感のなさすぎる出来事に、いまいち理解が追いつかないながらも、その重大さに思わずルクリアは驚愕の声を上げる。その声に驚いたのか、イアンは一瞬身じろぎするが、逆にそれがよかったのだろうか。多少落ち着きを取り戻し、先ほどより若干声のトーンを落として、それから、と続ける。
「もし出会ってしまっても、絶対に戦おうなんて思わないで下さい。た、確かにルクリアさんは強いけど、あいつと戦ってはダメです……。必ず逃げて下さいね」
「あいつ……? イアンさんはその魔獣、見たことがあるんですか?」
伏し目がちに言うイアンの言葉にルクリアは疑問を覚え、躊躇なくその事を訊ねる。
もし彼が人喰いの魔獣を実際に見ているのなら、その容姿を聞いておきたかった。何も知らずに運悪く遭遇するよりはマシだろう。
「い、いえ! ただの想像です! 気が動転していて……ごめんなさい!」
しかし、イアンの返答はルクリアの期待したものではなかった。一時は落ち着いていたように見えたが、やはり彼自身も得体の知れない恐怖と、焦燥感に襲われているのだろう。
「わかりました……。夜は出歩かないようにします」
ルクリアの言葉にイアンは胸を撫で下ろす。
「ええ、お願いします。――それじゃ、僕は戻りますので、くれぐれも気をつけて下さい」
「イアンさんも気をつけて!」
イアンは帽子を取って頭を下げ、軽く微笑むと身体を反転させて夜の街へと駆けていく。心配したルクリアが声をかけると、一度立ち止まって振り返り、今にも泣き出しそうな表情で、
「これが僕の仕事ですから」
と一言残し、石畳を蹴る靴の音を静まった住宅街に響かせながら、夜道を見守る街灯達に見送られていった。
ルクリアは小さなため息を一つつき、玄関のドアをそっと閉める。きっちりと施錠し、内側から押してみても開かないことを確認して、放り出してきた調理の続きをしようとリビングへ戻ると、そこにはお風呂上がりのモモの姿。
「だれかきてたのか?」
「あっモモ聞いて! ……その前に服着て」
やや不安そうに訊ねるモモに、つい先程聞いた話を伝えようと思うルクリアだったが、モモの姿を見て、何よりも先に伝えるべきだと思ったことを、思わずモモから目を反らしながらも簡潔に言う。
モモは何故か、服を脱ぐときは浴室の前で脱ぐのに、着るときはいつもリビングだ。ほかほかと湯気を立てる柔らかそうな肌と、洗いたてでサラサラ、甘い香りを漂わせる涼しげな色の銀髪、そして風呂の熱に当てられたか、わずかに普段より潤んだ瞳。
正直、毎日毎日こんなものを見せられていたら、同性とは言えいつか変なものに目覚めてしまいそうで気が気でない。部屋に出てくる前に服を着るように何度も注意はしているが、次の日にはまた同じように、モモはリビングで着替えている。
「それで、なんなんだ」
がさごそと衣擦れ音を立てながら、のんびりとルクリアのお古の寝間着を身にまとい、ようやく直視できるような姿になったモモが、小さなあくびをしながらテーブルに腰掛け、ルクリアに話の続きを促す。
「ちょっとテーブルに座らないでモモ! お行儀悪いよ! ……あのね、人喰いの魔獣が街に入り込んでるから、夜は絶対に外に出ないでって、さっき軍の人が来たの。だから気をつけようねって話」
「うぇ……じょうだんだろ」
テーブルに座って怒られた件については、まったく動じることなく小さな足をぶらぶらとさせて、反省の欠片の色も見られないモモだったが、続く魔獣の件では、明らかに嫌そうな表情で、悪い冗談はやめてくれと言わんばかりの視線でルクリアを見つめる。
「わたしもそう思いたいんだけど、あの焦りっぷりは多分マジだね……。――あっそうだモモ、一人で寝るの危ないしわたしと一緒に――」
「ぜったいにいやだ」
「え~なんで! いいじゃん減るもんでもあるまいし! ケチ!」
「げんきがへる」
正直、自分自身も不安な気持ちが拭えず、悪ふざけを装って添い寝をモモにせがんでみたが、悲しいことにその野望は一言であっさりと打ち砕かれる。
モモはそんなルクリアの様子をジト目でじっと見つめていたが、やがてぽつりと譲歩するように呟いた。
「ごはん……おいしかったらいっしょにねてもいいぞ」
「うぅ、情けをかけられた。くっ……殺せっ!」
「いいからはやくごはん」
子供は素直だと言うけれど、モモに限っては全くの逆だ。ティルやパン屋の女将の頼み事は二つ返事で聞くのに、ルクリアの頼み事だけは絶対に素直に受け入れない。寂しそうにしていると、最終的にはなんだかんだ言いつつも付き合ってくれるのは嬉しいが、これはもしかして昔お客さんから聞いた、反抗期、なるものなのだろうか。だとしたらこれは、小さな大事件だ。
モモをちらちらと見ていると、不意に目が合う。思わず苦笑いで誤魔化すと、モモは眉をしかめて目線をそらしながら、小さな声で呟いた。
「……ごはん……」