3-2
「それじゃあ俺は見廻りに戻るぜ。二人とも頑張ってな」
一通り世間話も終えた頃、チェスカーは思い出したように立ち上がる。小さく伸びをして肩を鳴らすと、それじゃあな、とキザに二本指を立てて店に背を向けた。
「うん。おっさんも頑張ってね~」
ルクリアがチェスカーの背に見送りの声をかける頃には、チェスカーの姿は既に人混みの中に消えていた。
その後もルクリアの店に客が来ることはなく、退屈な一日を過ごしたルクリアと可愛がられ疲れたモモは、橙色に染まり行く空を見て、安堵のため息をつく。
「三月になったけど、まだ流石に日が落ちるのは早いね~……ん? どうしたのモモ、何か落とした?」
店仕舞いを終えて家へと帰るその道で、何かが気になるのか周りをしきりに見回すモモ。ルクリアは普段よりも少しだけ自分に距離を詰めて歩くモモが気になり、声をかけてみる。
「いや……。なんだかずっと、だれかに見られてるようなかんじがする」
モモは落ち着かない様子でそう答えると、ルクリアの背中へ手を伸ばして、軽くルクリアのジャケットを握りしめたまま、四方を警戒するように視線を飛ばす。ルクリアもそれらしい人影がないか辺りを見回してみるが、街路の通行人以外の人影は見当たらず、視線を感じるようなこともない。
「うーん、わたしは特に何も感じないけど……。色んな人と話して疲れてるんじゃない? はやくお家にかえろ」
「……わかった」
若干腑に落ちないような様子のモモだったが、早く家に帰り着くことが得策と判断したようで、それ以上視線の気配について言及することは無かった。ルクリアの言葉に素直に頷くと、背中から手を離すこと無く歩みを進める。
普段通りの道を通り自宅へ。道中変わったこともなく、無事にルクリア達は我が家の前までたどり着く。いつもと変わらぬ佇まいの家は、鍵を開けられると主人の帰りを喜ぶように小気味いい音を立てた。
「まだ変な感じする?」
「ううん、もうへいき」
ひんやりとしたドアノブを引いて、モモを先に家の中に入れてから、ルクリアも玄関に入りしっかりと施錠する。ルクリア自身は結局何も感じ取ることはできなかったが、モモは家に入るまで気配を感じていたのだろうか。ようやく安堵したように身体の力を抜き、ルクリアの言葉にため息混じりに返答した。
家の中の様子も、朝出かける前に見たものと全く変わりない。いつも通りモモが脱ぎ散らかした部屋着がさみしげに床に転がり、沈黙する暖炉は炎を灯されるのを今か今かと待ち構えている。
モモと暮らすようになってから、少し、いや、かなり散らかるようになったリビングを見渡しつつ、ルクリアは特に室内も異常はないことを確認する。
「モモ~、先にお風呂入っていいよ~」
「うん」
ルクリアは家事の邪魔にならないように長髪を後ろで結わえ、暖炉に火をくべながらモモに入浴を促す。モモは随分と疲れているようだったし、部屋を暖かくして夕飯が出来るまで、体を暖めて休んでいてほしいとルクリアなりの配慮だ。
モモもそれに素直に応じると、床に散らばっている自分の部屋着を小脇に抱え、ぺたぺたと足音をさせながら浴室へ向かう。その足音に共鳴するように、火を灯された薪が夜の宴の始まりを奏でた。
しばらくすると聞こえてくる浴室の水音。リビングも暖まり始めて来た頃、鼻歌交じりに夕飯を調理するルクリアは、玄関の扉を叩く音がすることに気づく。モモの一件もあり、若干警戒心を募らせながら玄関口へ向かうルクリア。調理の途中で火を消された食材達が、悲しみの声をあげるのを聞き流しながら、思わず忍び足になりながらも玄関の鍵を開ける。僅かながらにも防壁を張るための魔力を身体の中で練り上げ、不審者への対策も忘れない。
しかし、玄関のドアを開けた先にいたのは、ルクリアが想像だにもしていなかった人物だった。
「ど、どうも!」
やや物怖じ気味で挨拶をする、軍隊の制服に身を包んだ青年。ルクリアは以前、彼にどこかで会ったような記憶もあるが、それがいつのことなのか思い出すことが出来ない。
「あなたは確か……えーっと」
「自分は、メリカ支部に最近配属された、新人のイアンと申します!」
イアンと名乗った青年は、緊張した様子でルクリアに敬礼する。弾みでずれた眼鏡を直すと、今度は前髪が片目を隠す。どうにもぎこちないその様子を見て、ルクリアはようやく記憶の引き出しから、イアンと会った日のことを見つけ出すことが出来た。
群青の髪に真っ黒な瞳。まだ幼さも残る、どこか初々しい雰囲気を部隊の中で漂わせていた彼が、おそらくそうだった。