或る少年武将の苦悩
或る少年武将の苦悩
喉が引き攣った。
「………………は!?」
飲み掛けの茶が入った碗を落とし掛けた。瞠目して見詰める先で父が笑って言う。
「だから、私隠居するって。今からこの家の当主は純一郎、お前だから」
「…………いやいやいやいやいや、父上! 俺はまだ15ですよ!? っていうかこんな時に何言い出すんだ貴方は!!」
「『こんな時』だからだよ」
激昂して立ち上がる俺の前で、父は穏やかに微笑んでいる。
「お前ならやれるさ。大丈夫。伊達藤次郎公だって話がわからない人じゃないさ」
時は戦国――といっても戦国時代は応仁の乱から織田信長が天下統一に乗り出すまでの間を指すらしく、今回の話は正確に年代を定めていないもののあまり戦国時代とはいえないかも知れない。が、細かい事は気にせずアバウトに受け止めて貰えれば嬉しい。何せ、この話はフィクションで実際の事件・団体とは一切無関係だからだ。
話を戻そう。とにかく大体戦国時代、多分現代の東北地方にあたるどこかに、財前家の領地「石山」があった。この領地、非常に良質な鉱山が複数あった。これらから生み出される様々な鉱物で、貨幣や装飾品は勿論の事、刀や具足など当時特に需要の高かった金属品を生産し売りさばく事で豊かになっていた。こういった土地なら自国の財源にすべく他国から狙われそうなものであるが、そこが財前家の世渡りの上手さで、大きな戦を切り抜けながら自国の領土を守り続けた。
そう、これまでは。
「………………逃げたい」
「兄上、逃げたらすぐにでも追っ手を差し向けるからな。日知あたりならお前の事をすぐにでも見つけられるだろうよ」
「ちょ、酷い……! 何ならお前替わってよ、俺に伊達を相手するなんて無理! 怖すぎるよあの人!!」
そういってすがりついてむせび泣く俺の肩を、双子の弟は優しく叩く。鼻水を啜りながら見上げれば、真次郎はとても穏やかな微笑みをたたえていた。……今気付いたけど、この表情は父にそっくりだ。
「大丈夫だ兄上、父上もお前なら大丈夫だと保証してくれたのだろう。あの海千山千の父上がそう言っていたんなら」
……弟の言葉も、気休めにしか感じられない。項垂れた。
つい先日の事だ、財前家当主であった父が突如の隠居表明を示したのは。父はまだ四十路もいっていないはずでまだまだ働き盛りだ。それなのに、いきなりの隠居宣言。家臣達はまだ右往左往しており、俺の小姓頭はその統率に明け暮れており今は傍にいない。この部屋にいるのは俺と弟の真次郎に従者2人(内訳:俺の忍1名(天井裏)、弟の重臣1名(弟の斜め後ろ))だ。この騒ぎを引き起こした当の本人は、のんきに奥に引っ込んでいる。どうやら、完全に俺に全てを明け渡してしまう気らしい。本当に困った。
「……今更でございましょうが、殿。純一郎様」
「何だよ三平太」
顔を手の甲で拭いながら振り向けば、大して畏まった様子も見せず弟の家来がいう。
「父君の增之助様は、貴男様にこのような時の方策をお教えせずに隠居なされた訳ではないのでございましょう? あの方は教育にとても熱心な方でございましたし」
「ああ教えられたよ、それこそ武将のいろはは一から十まで手取り足取り教えられたさ。でもね三平太、わかってる?」
「何がでございますか」
三平太が首を傾げる。7歳も年上の癖に仕種が幼い男だ。足ではなく膝で彼の前に進み出た俺は、貼り付けた笑顔を向けながら肩に手を置いた。その手に力をこめる。
「……織田の猛攻も舌先三寸でほとんど潜り抜けてきた働き盛りの男と、頭でっかちで経験値皆無のたかだか15歳の童。今回のこの財前家の危機、どっちが潜り抜けられると思う?」
「ご自分の事をよくわかっていらっしゃるのですね」
「煩い」
思わず頭を叩いた。斜め後ろと天井裏から同時に溜息が聞こえる。遅れて、俺も溜息を吐いた。千軍万馬、海千山千と讃えられた父も乱心したとしか思えない。あの伊達藤次郎が、「ウチに服属しろ」と要求してきたというのに。
前述の通り、財前家の領地である石山は、とても良質な鉱山が他国と比較にならない程に多い。「石の山」という地名もこの事から由来する。恐らくどの家も、ここまで多くの種類の鉱物を発掘出来る鉱山は持っていまい。それ故に昔から財前家は常に他国から領土を狙われ続けていた。しかしそれを歴代の領主がその危機を回避し続け、現在石山は財前家始まって以来に栄えている。真次郎は父と同じくらい、下手したらそれ以上に商業に明るく、経済面で富ませてくれている。その為、かの伊達もここまで繁栄している土地を、戦を吹っ掛けて無理に服属させるのは得策ではないと考えているらしい。出来ればそのままの形で丸々石山を手に入れたい。それには、財前家を説得して自分の家に服属させる必要がある。更にいえば、人が逃げないように、他国の無用な関心を引かぬように、なるべく騒ぎを起こさず。しかしだからといって、最終手段として戦をためらう相手でない事は、伊達藤次郎の過去の経歴から充分すぎる程にわかっていた。
「……俺達の年頃には初陣を勝利で飾ってる上、小手森城の撫で切り……その上人質に取られた自分の実父を敵と一緒に殺しちゃう。そんな人と面と向かって話し合えって何? 遠回しに俺に死ねっていってるの父上……! いくらここが一応奥州に入るからって、端っこじゃん! 伊達に顔見せなんて要らないじゃない……!!」
「……父上に言え。お前に家督を譲った時にはもうその書状を伊達に送っていたんだ」
再びむせび泣き出した俺に、真次郎が呆れたような声を掛けてくる。
「むしろ父上は早々に決着をつける場を設けて下さったんだろう。良い機会じゃないか」
「ああそうだろうね、父上が自分で話をつけてくれるんならね……」
「……あのな、兄上。父上も仰っていたんだろう」
弟は言う。
「この局面を乗り切れないようじゃ、どちらにしろ今後お前に家督を譲る事は出来ない、とな」
「……最初の局面がもう山場ってどういう訳なんだろうね」
「ぐだぐだ喚くな」
弟の両手が俺の肩を掴む。無理矢理俺の体をそうして起こすと、真次郎は俺の目を見て言った。
「兄上が決めたのなら伊達家に服属しても構わん。ただし、今まで通り他国との商売の自由を認めさせろ」
「それ何て無茶ぶり」
「わかったら、とっとと準備しろ」
自覚出来るくらい血の気が引いている。廊下から足音が響いてきた。ああ、多分この足音は……。
「透波から報告がありました、伊達がそろそろ到着します!」
やっぱり俺の小姓頭だった。その言葉を聞いて、即座に脳裏に正室とまだ2歳の息子の顔が浮かぶ。今生でまた生きて会えるだろうか。何かあったら誰かに2人を連れ出して貰わないと……そこまで考え、その「何か」が起きない事を同時に祈った。例えば、いきなり叩き切られて、それを口実に戦を吹っ掛けられるとか。
今度の財前の当主はまだ15だと聞いていた。先代から「是非今度お立ち寄り下さる際には顔を合わせてやって下さい」と送りつけられた書状にそう記されていたから。
「純一郎殿にはもう御子息がいらっしゃるそうで。海丸殿と申されましたか」
「ええ、13の時に生まれた子です。やんちゃ盛りで困ったものですよ」
(こいつのどこが未熟者なんだ)
それなのに、目の前の少年は、私を前にしてもとても泰然としていた。とてもではないが、戦をまともに経験していないようには見えない。どうやら今回は厄介な事になりそうだ。
そもそも財前家は、化け狸の子孫ではないかといわれている程舌先三寸でのらりくらりと、潤沢な鉱山の複数ある領土を巻き込む戦を躱し続けてきている事で知られる。あの織田が攻めてきた時も先代が自ら尾張に出向き、説得の末に領土を寸分たりとも失わずに済んだという話だ。そんな歴代の当主の中では1番の狸だともいわれている当主の突然の隠居には酷く驚いた。何せ私が、暗に「私が笑っているうちに服属しろ」という通達を出したばかりだからでもある。
『けど、これは良い機会だ。今の当主が子狸のうちに絞めてしまえ』
家臣との協議の末に、そう結論づけてやってきた石山――しかし、目の前の男はどう見てももう立派な狸を腹に飼っている。
(忍び込んだ透波の話じゃ、こいつは怯えまくってたという話だったが。まさか忍が入り込んでいる事を察しての演技か?)
「どうなさいました? 伊達殿」
「……いえ。それにしても堂々となさっておられますな、と。やはりお父上からご指導を?」
碗を口から離し、前を見る。もう何年も前に病で狭められた視界の中で、外つ国の人間よりも白い色彩を持つ少年は、私の言葉にうっそりと微笑む。
「そんなところでしょうか。偶々長男として生まれましたので、この石山の領主として育てられましたけど、特別な事は何一つとしては……」
「またご冗談を。財前家といえば代々巧みな交渉術で戦乱を切り抜けてきた事で有名ではありませんか。……純一郎殿も、そのお歳で随分と落ち着いていられる」
一旦言葉を切り、再び碗に口をつける。目を薄く伏せながら相手の様子を窺った。……やはり、何か策でもあるのか。彼は沈着としていた。碗から顔を上げる。
「それとも、我が伊達家に服しない為の策でもお持ちで?」
「…………」
純一郎は、ただ微笑んでいた。しかし、私の言葉を受けてから、彼は斜めにしていた体を私に向かうように座り直した。幼い目が、俺を見詰める。
「……伊達殿。この石山が今ここまで栄えているのは、ウチの鉱山から産出される資源であちこちと商売をしているからです。それはご存知でしょう」
「ええ」
「けれどこの戦乱の世。あちらに具足を売り続ければ、兵糧攻めの要領でそこと敵対しているこちらに攻め込まれる。それを防ぐ為にこちらにも刀を融通する……きりがありません」
「……それならば、ウチに」
「けれど、それは自由に商売が出来ているからこその悩みでもあるのです」
きっぱりとした声だった。思わず目を瞠る私の前で彼は続ける。
「どこかの家に属していれば、その事情に必ず左右されます。我々がここまで繁栄出来たのは、小さいながらも、この日ノ本で、どこの家にも属さず独立し続けてきたからです」
「……つまり、貴殿はウチに属する気はないと?」
椀を持っていた右手に力が籠もる。……この部屋に刀はない。この茶室に入る時、小姓に預けた。そして見渡す限りではこの部屋に得物は見当たらない。しかし私の懐には匕首がある。これでこいつを斬り捨ててしまい、戦を吹っ掛けようか。そんな物騒な最終手段を脳裏に巡らせる。
隠すつもりもなかったし、脅す意味合いもあったから殺気も出ていた事だろう。しかし純一郎は、笑み、言い切った。
その目は、化け狸というよりも――
「何を仰有る。武勇で知られる貴殿ならば、天下人となられてこの国を己の家と出来るでしょう? そうなれば、自ずとこの石山も貴殿のものになりますし、我が財前家もその時からは平和に商いがどことでも出来るというものですよ。ですから、わざわざ今からウチを傘下に入れる事はありませんよ」
「つまり、『天下を取ってからウチに来い』。そういう事か?」
そう言葉を返す私に、純一郎はただ笑っていた。けれど、その双眸は笑っていない。鋭い狼の目で、私を射貫いていた。自然と口角がつり上がる。
――狸の悪賢さと衣を着た狼のような内面を、子犬のように無害そうな笑みの皮の中におさめている。
愉快な奴だ。潰すには惜しい。
不意に、父が言う。
「真次郎。お前と純一郎の違いが何かわかる?」
「……髪の色?」
「そういう事じゃない。お前はまだ妻も子もいないだろう」
僕に背を向けて文机に向かう父の言葉に、僕は自分の顔が少し熱くなったのを感じながら、反論する。
「……妻はともかく、この年で子供がいるのはいくら武家といっても兄上が早過ぎるんだと思いますが」
「それはそうなんだけどね。つまり、いざとなれば真次郎、お前はその身ひとつで逃げられる。けどあの子は妻も子もいるんだ。群れの頂点に据えれば、あの子は逃げるに逃げられない。そんな子だ。精いっぱい群れを守ろうとするよ。
……私にはお前達がいるけどな、やはり……妻亡き今、少しばかり気概が衰えた。他の奴ならともかく、あの若く猛々しい男を相手にする気力は私にはもうないよ」
「……」
……母は、父よりも体の弱い人だった。僕に商売に関して教えてくれたのは商家出身の彼女で、僕が今こうして石山を繁栄させられているのも母の教えが活きているからだ。そしてそんな母を、父は深く愛していた。
父は、息子の僕達よりも、母の為に国を守っていた。恐らくその性質は兄に受け継がれているだろう。何せ兄はたったひとりの妻を呆れる程大事にしている。だからこそ心配になる。妻を亡くした時、兄は変わってしまうのではないか。母を亡くした時の父のように――
「あ、純一郎お帰り。伊達殿にはお帰り頂けた?」
「兄上?」
不意に障子が開かれる音がして、振り返った父が首を伸ばして声を掛ける。その後に僕も振り向けば、そこには確かに兄がいた。わずかに項垂れた彼は、障子に手を掛けたまま部屋に入ろうとせずに突っ立っている。……疲れたのだろうか。立ち上がった僕は兄の方へ歩み寄りながら声を掛ける。
「兄上。大丈夫か」
顔を覗き込めば、ようやく兄の顔が見えた。彼が口を開く。
「……真次郎………………胃薬、匙に調合させて」
途端、兄は腹を押さえてその場に崩れ落ちた。
――「虚勢張りすぎて胃が痛い。自分の演技力にこれ程感謝した事はないよ」。寝込んだ後、兄はそういった。
その時の僕は勿論、兄も知らなかった。……もしかしたら、父は何となく予測していたかも知れない。
「小十郎、今回の財前家の当主は面白いぞ。父親とはまた違う味を持っている。……あいつを家臣として引き抜けたらな。妻子持ちだがまだ15だというし、小姓としてなら……要は私の匂いを感じさせずに商売が出来ればいい訳だからな、やりようはいくらでもある……」
兄が妙に気に入られた事で、その後伊達が足繁くこの石山に通ってくる事になるとは、僕達兄弟は夢にも思わなかった。
時は戦国。のちにいう「独眼竜」伊達藤次郎政宗に見出された事により、後世で「石山の狼」と呼ばれる事になる兄と、その弟の僕がまだ15だった頃の事だ。
了