030412 近江→小田原
藤堂氏。
戦国時代末期に名を上げ、安土時代に普請と伊賀の名奉行の一族として重用され、近代に奉行でありながら国主格である侯爵家となったその家の祖先は、羽柴家が諸国を巡って書ききり『大名家の家系図』と称される事になった『新風土記』の中で『藤原北家長家流』と確定された。
藤原長家、と聞いても誰かわからない人が多いだろうが、長谷寺にも参詣した父親の名前・藤原道長さんの名前は知っている人が殆どだろう。その道長さんの6男にあたる長家さんの血が脈々と受け継がれていき、やがて戦国時代の頃には近江・愛知郡の鯰江城主になっていた。
そして、その城主だった九乗綱の次男に源助という者が産まれた。順調に経れば、そのまま近江国内で完結する人生だったが、何故か源助さんは武田信虎殿が治める甲斐に移り、その信虎殿から『虎』という偏諱を貰い『虎高』と名乗るほど気に入られる。しかし、他国の者が気に入られるのを嫌った甲斐出身の家臣によって追い出されて、近江に帰国する。
『近江に帰ってきた虎高を待っていたのは、隣の犬上郡の藤堂村の土豪である藤堂忠高の娘への婿養子の話だった。六角氏の家臣である九氏の一族が、浅井家の勢力範囲の中にある藤堂氏に養子を出せるという点は注目すべきところだろう』
そして、虎高さんはその忠高の娘さんや子供の間に多くの子供をもうけ、やがて観音寺騒動などで六角家が衰退していくと、浅井家への従属を強めていく。
虎高さんの長男の高則さんは伊勢の大河内城で北畠家の援軍として赴いた時に討ち死にしてしまうが、次男・高虎殿の方は翌年の姉川の戦いに参戦して織田軍の敵首を取る武功を挙げ、浅井長政から感状を受けるなど武勇に優れていた。
しかし、その浅井家は姉川の3年後に滅びてしまう。なので高虎殿は、浅井家から寝返った阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌に仕えた。しかし、磯野は隠居させられてしまい、彼の養子になっていた信長公の甥・津田信澄殿の家臣になるが、浅井旧臣という事もあり長続きせず、これは自ら出奔。湖北の高島郡から湖東へ向かう。
『そこで仕えたのが、丹後事件まで長く仕える事になる羽柴秀長だった。兄で浅井の旧領を信長に任された羽柴秀吉と共に身分などを問わず広く家臣を募集しており、武勇に優れる高虎を採用した』
高虎殿が秀長公に仕えた翌年、秀吉公は信長公に中国攻めの総司令官に任じられ出陣。秀長公もまずは共に播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦した。丹波の竹田城が落城すると、城代に任命される。
1580年、但馬の出石城と有子山城を落城させ、当主・山名祐豊を降ろして、但馬国平定が完了すると秀長公は出石城主となる。翌年には鳥取城攻めに参戦し、更にそのまた翌年には備中高松城攻めでは鼓山付近に陣を張り城の包囲の一角を成す。
しかし、その備中高松城攻めの最中に情勢は一変する。
『6月2日、本能寺の変勃発。これにより信長は亡くなり、信忠は近江に逃げ延びたため、織田家の中枢部がストップする。
この変を翌3日未明に知った秀吉は、この変を毛利に悟られないように城主・清水宗治の切腹などの和平をこぎつけ、一路凄まじい速度で東へ向かうが、高虎はその一団の中にはいなかった。
同じ頃、かつての旧主である信澄の身にも危険が迫っていた』
信長公に2度目の反乱を起こそうとした信行の子供で、柴田勝家殿に養育され、織田家の分家である津田家を名乗った信澄殿。東大寺・正倉院の蘭奢待を切り取る時の奉行を務めたり、有岡城後の荒木村重の正室ら一族37人名を京都に護送したりするなど、信長公から重用されていた信澄殿だが、家督を継承していた時に明智光秀の娘と結婚していた。
この事が、堺にいた織田信孝公と丹羽長秀殿の疑心を産んでしまい、初代の大阪城の城代を勤めていた信澄殿に軍勢を差し向けてしまう。
寡兵で完成していない大阪城ではなく、小さいので密度が増せる野田城に籠る信澄殿だが、四国に遠征しようとした万の大軍に耐えられるはずもなく、しかし光秀に援軍を求めるのはアホのする事なので思案している時に、信孝公の本陣に1隻の船がやって来る。
『6月5日の朝、秀長を介して播磨・家島諸島の水軍に載せてもらった高虎の船がやって来る。
すぐに信孝の本陣に参じた高虎は自身の首と引き換えに攻撃の一時停止を進言。信孝はそれに渋るが、その直後に安土から急報が入る。信忠が安土城に帰還して、信孝に即座の攻撃停止を命じてきたのだった。
信孝も信忠の命ならば、と攻撃を停止して、即日和平を結ぶ。そして、翌7日に近江の信忠と協調して、光秀と同盟を結んだ大和の筒井順慶征伐に赴き、高虎も信澄隊の一員としてそれについていく』
6月8日、信忠公の生存と信孝公の出陣を知った順慶は慌てて同盟を破棄して、自ら生駒を越えて信孝公に釈明。同日には、信忠公は瀬田川を越えて、大津城に迫る。
6月9日、光秀の居城・坂本城を巡る大津の戦い勃発。
6月10日、朝廷が3日前の光秀勝利の祝賀を取り消す。
6月11日、秀吉公が尼崎城に到着。ここで戻った信孝公との部隊と合流して、この日までに馳せ参じた摂津の武将と共に出陣。同日、朝廷は『明智光秀とそれに与する者』を朝敵に指名。これにより出入り口が狭い大津から、広い三川の合流部に移動した明智軍主力は動揺。
6月12日、山崎の戦い。瀬田川・宇治川沿いにきた信忠公の奇襲により崩壊。光秀は降伏して、信忠公に首をはねられる。
『この山崎の戦いを経て、高虎は再び秀長に属し、天下統一を肌身で経験。そして、最後の戦いである北条攻めを迎える』
北条攻めも内部分裂を誘った事から、難なく北条家は崩壊。残るは小田原の本城と少数の支城のみになり、雌雄はほぼ決していた。
しかし、その最中に事件が起きる。




