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私の日記  作者: コーレア
005 野外活動編
141/146

030430 上杉→山内

 足利尊氏と直義(ただよし)の兄弟からしてみると従兄弟の関係となる上杉憲顕は、擾乱において直義に味方し、同じ関東管領の高師冬を諏訪で自害に追い込んだりするが、直義が敗れると信濃に追放された。

 しかし鎌倉にいた頃にサポートされた義詮と鎌倉公方となった基氏の兄弟は、密かに彼を越後守護に再任し憲顕はからずも復権する事になり、更に畠山国清を罷免して関東管領につかせようとする。

 これを邪魔しようとした宇都宮氏にも勝ち、国清も領国の伊豆で自害したため、関東管領および越後・上野守護は公式に新興勢力の憲顕がその後釜に座る。


「憲顕は1368年に亡くなるまで関東管領として鎌倉公方の足利基氏、次いで氏満父子を補佐します。

 彼の死後、憲顕の三男であり摂津で高氏一族を殺した能憲(よしのり)と憲顕の甥にあたる朝房が両管領として後を継ぎますが、朝房は後に辞任しています。この朝房の時には、鎌倉の犬懸に住んでいてそこから犬懸上杉家と呼ばれており、私も混同を防ぐために犬懸朝房など地名で言っていきます」


 一方、憲顕の血筋である山内能憲は1378年に亡くなるまで氏満を補佐し、彼の死後は子供がいなかったため弟の山内憲春が管領を継ぐ。

 しかし、兄の能憲は生前は憲春の弟である憲方を推しており、山内家の本拠地である上野を氏満から貰った彼は、その返還を主張する憲方と家内で対立。しかも、中央の政変に乗じて、主君の氏満が将軍職を欲して挙兵する。

 危うい立場にある憲春は、自分の後ろ楯になっている氏満が動くと政治的地位は破綻ししかもその氏満を補佐する立場なので、幕府に氏満の上洛計画が伝わると……。


「1379年3月7日、諌書を遺して鎌倉の自邸で諌死して果て、氏満は上洛計画を中止し、管領は憲方が継ぐ事になります」


 しかし、氏満の上洛計画や顛末は、京都の将軍である足利義満に伝わり、氏満や憲方は謝罪に奔走する。許されるものの、翌1380年に氏満の幼少時代からの師であった義堂周信(ぎどう しゅうしん)を義満が強引に京都に召し出し、義満の意向を受けた幕府によって任命される山内憲方は氏満と周信を脅してこれを受け入れさせる。

 その憲方の行動を見た氏満は将軍家や関東管領に対抗するために、自らの勢力拡大を意図して下野で小山氏の乱などを引き起こして関東・奥羽の有力大名を抑圧するようになり、次第にそれらと対立していく。


「一方、山内憲方は1394年に死去。管領を憲方の子供の憲孝(のりたか)が継ぎますが、その憲孝は父親の1ヶ月後に亡くなり、管領は山内憲方と共に動いていた犬懸朝宗に移ります」


 犬懸朝宗は、能憲と一緒に管領になったが後に退いた朝房の弟にあたり、彼から家督を譲られていた。

 信任が厚かったため元々の上総(かずさ)に合わせて武蔵の守護にも任じられ、山内家と肩を並べるまでになる。実務では、氏満の子供の満兼が遠江・駿河守護で九州で活躍した今川了俊に誘われて大内義弘の挙兵に呼応しようとした所を止める功績をあげる。

 更に大内義弘の反乱、いわゆる応永の乱が起きた1399年に陸奥と出羽も鎌倉の管轄になるが、満兼が弟の満貞(稲村公方)満直(篠川公方)を奥州に派遣して伊達家に対し領土割譲を求めるが伊達氏はこれを拒み、大崎氏などと同盟して伊達政宗が反乱を起こす。これを鎮圧したのが、朝宗の子供である犬懸氏憲(うじのり)だった。

 

「朝宗は1405年に管領を辞めて、1409年に満兼が死去したため隠居し、管領は再び山内家に戻り、憲孝の弟にあたる山内憲定が継ぎます。ちなみに憲孝と憲定の間の房方は叔父さんの後を継いで越後守護になっています」


 管領になった憲定は、幕府と鎌倉の間を取り持とうと奔走するが満兼死去直後の1310年、足利持氏になって間もない内に持氏の叔父である満隆の謀反騒動が起こり、翌1411年に管領職を犬懸氏憲に譲る。

 初代の憲顕が亡くなって43年後に回ってきた目に見えないお鉢。これに犬懸氏憲は翻弄される。


「持氏は氏憲を疎ましく思い、氏憲の対立者であった山内憲定の息子である憲基を重用するようになり、また、山内家にとっても朝宗以来の犬懸家の急激な勢力拡大は怯えるに充分でした」


 1415年、氏憲の家臣の不出仕を理由に所領を没収し、出家した氏憲こと禅秀が抗議して関東管領を辞任すると、持氏は憲基に継がせた。これに不満を抱いた禅秀は、持氏の叔父であり憲定辞任の発端になった満隆などと共謀の上挙兵して持氏の居館を襲撃し、持氏・憲基をそれぞれ駿河・越後に追放して鎌倉を制圧した。

 しかし、鎌倉と対立しているはずの4代将軍の足利義持は持氏の帰還を支持し、北からは越後守護の山内房方、西からは了俊に変わって駿河守護になった今川範政を中心とした幕府軍が攻め寄せる。禅秀は防戦したが、配下の武将達が次々と離反するに及んで遂に力尽き、1417年に満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の近くの雪ノ下で自害する。


「これがいわゆる上杉禅秀の乱と言われるもので、犬懸家は表舞台から退き、山内家の1人舞台になります」


 しかし、平穏は訪れない。

 山内憲基は犬懸禅秀に勝ったから安心したのか翌年に亡くなり、子供はいなかったので乱で活躍した房方の三男である山内憲実(のりざね)が10歳の若さで管領を継ぎ、21歳の公方・持氏を支える事になる。

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