030430 鵜→錦
「下田城はよく織田が攻めてきた時に建てられたと誤解されることが多いですが、それは黒田が建てた熱海城にあたり、下田城は少なくとも北条氏の時代には建てられていました」
今の状況は、恐らく上野城の時に似ているだろう。
しかし、その経緯は木菟がシャトルバスの中で姫音さんの事を漏らしてしまったからという点では違う。
「北条氏はこの城を水軍の根拠地とし、やがて織田信忠公との関係が悪化すると伊豆出身の清水康英を城将としました。小田原征伐の時、九鬼嘉隆殿が率いる志摩水軍が来襲し、康英は手兵600余で戦上手の堀秀政殿相手に約50日にわたって籠城した後に開城します。
その後の織田と北条の和平によって、伊豆は織田の領土になり、下田城には信忠の直接の臣下だった竹中重利殿が入り、徳川に対して睨みを利かせます」
謝る木菟に対して、150円の下田城のパンフレットを奢ってもらう事で手を打った姫音さんは、下田城の天守閣で、皆の目の前で少し楽しそうにここについての歴史を話す。
「その後、竹中氏は下田城を家臣に任せて相豆国主の山内氏がいる小田原城からは箱根山の外側の山々を挟んだ所に位置する熱海城に移動します。
ちなみに羽柴さんや彼女の義理の兄である政宗君の実家の羽柴家は、新風土記などの功で爵位中最上位の公爵に列せられています」
その捕捉で、元々知っている小百合さんなど魔法科の人達ではなく4組の人々が、様々な反応をしながらこっちを見てくる。
下田城の事は一昨日に聞いていたので後ろに立っていた私は、木菟と同じく推薦した彼女からの、笑顔付きのお返しに思わず首を掻いてしまう。
「話は後でな」
という中御門先生の鶴の一声で殺到する事は無かったが、たぶん満足に城を回れないだろうなあ、と思った。
後は下田と同じ伊豆の著名な人物であり、氏衛門が称した姓の由来になった前北条氏の事などについて少し話した後、解散となり、約1時間後の9時40分に城前の駐車場集合となる。
「羽柴君」
となるはずなんだけどなぁ。
見た目ほど嫌そうではない姫音さんの首根っこを掴んだ4組の人が、目を爛々と輝かせて目の前にいた。
最近の武家に対する畏怖の減少嬉しい限りです、はい。
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次男坊だよ? と言ってみたが、そんなのは良いよと両断されたので、ひとまずじいちゃんからよく聞かされた城の事を喋る。
しかし、ずっと天守閣にいると邪魔なので、私を先頭に城を巡るように歩く。
天守閣から降りて城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域で郭とも書く曲輪沿いに歩いたり、最南端のお茶ケ崎に地震で何度も倒れた物見櫓や、その直下の船溜まりになっている和歌の浦などを、まだパンフレットを持っている木菟に案内させたりしながら喋っていき、駐車場に9時半に着いた。
「お疲れ様です」
『うーい』
シャトルバスは貸し切りなので、すぐにバスに乗せてくれ、一旦お開きとなる。
その後、駅前で真南に聳え立つ城をバックに、4組の新聞部である長岡優香さんが集合写真を撮る。
そして、下田駅を10時18分に出る熱海行き各停に乗る。車中では寝ている人と起きている人が半々だったらしいが、私は夏彦と同じくすぐに寝入ってしまった方である。
駅を最小限に留めたため駅間距離が在来線にしたら異様に長い伊東線の網代駅を出た頃に起こされ、熱海らへんの車窓を見る。
11時58分、熱海駅に着いた私達は、そのまま官鉄の駅の目の前にある古びた駅に向かう。
新宿方面に向かう車窓からなら左側に見えると書かれ、降ったり止んだりを繰り返す驟雨の合間からも、天守閣の辺りがしっかりと見えた熱海城には、1900年に初代駅舎が作られたロープウェイで向かう事になるのだ。
ちなみにその駅舎は関東に大きな被害をもたらした丁度80年前の関東大震災(死者・行方不明者2万人)で城と共に崩壊し、戦後と伊豆バブルの2回にわたって改築されたという経緯がある。
『わー』
伊東線・伊豆急行線開通前は温泉街として、開通後は伊豆への入り口として発展した熱海の市街地を見下ろすように、ロープウェイは登り、曲輪の端は官鉄や新幹線の線路の上にある熱海城に着く。
下田城と同じく、山の丘陵に沿って作られた熱海城は、伊豆第2の城としてお客さんも多く、本丸とロープウェイの間にある広場には雨天にも関わらず多くの人で犇めきあっていた。
『いただきまーす』
「残したらあかんからねぇ」
城下の食堂で並んで座りお昼御飯を食べる。
荒天が多い冬の旬を過ぎたため徐々に高騰しているらしい金目鯛の刺身を食べて、熱海城に入る。
房総州安房地区の鴨川市と同じく伊豆・小笠原・南洋諸島の入り口である熱海を見下ろす熱海城は、黒田孝高が築き竹中重利が入る。そして、そこから250年にわたり竹中氏の賀茂郡支配の拠点になる。




