五話「吟詠の夜に、詩歌ありて」⑦
「遅えよおお! もうオープンだよおお!!」
ここまで取り乱した榊は初めて見た。まいった。先ほどの騒動で数分は遥かに越えていた。
客席の時計を見やる。もうすでにオープン20分前かという時刻だった。
榊に謝り、衣服を整える。見れば詩歌はすでに着替え、手洗い消毒に入っていた。
「すまない! どこから手伝えば良い!?」
「ホールだ! キッチンはもう立ち上がるが、そっちはさっぱりだ!」
「わかった! 詩歌! 俺と詠も手洗いしてすぐに入る! お前はホールオープンしつつ俺達に作業指示を!」
大声で役割分担の声掛けを済ます。オープンは通常30分掛かる業務だ。間に合わせなければならない。
詩歌の顔は抗議の表情がありありと見て取れた。うるさい。今はそんな場合じゃない。
目で訴えつつ、俺と詠は手洗い場に入った。
「えええ!? 私も働かせる気!?」
誰のせいだと思ってやがる、と詠を視線で黙らした。壁に貼り付けてある手順書を見せ、タイマーを顎でしゃくる。
詠はしぶしぶといった表情で頷くと、見様見真似で手指消毒を開始する。
――なんだかんだ素直だな。
しかし看過できない事が起こった。泡だらけの手で詠の腕を掴む。
「なにするのさああああ!」
「石鹸の水流しは20秒だ。お前今3秒フライングしただろう」
「泡が落ちたからいいじゃないの!」
「馬鹿野郎。ノロウイルスは石鹸じゃ死なない。流水で物理的にシンクに叩き落とす必要があるんだ」
シーズンは過ぎたとはいえ、まだまだ奴の勢力は侮れない。食中毒事故は絶対に避けなければならない。
――すっかり気分は店長だな。
自嘲するような笑みが零れた。しかしそれは悪いものではなく、暖かに心を満たしていた。
詠の手洗いは当然イチからやり直しをさせた。
◆
「恭平くん、遅い」
「店長と呼べ店長と」
詩歌が鬼のようなスピードで作業を進めながら文句を垂れる。いや、遅れたの俺のせいじゃないよね?
見れば彼女はテーブルの拭き取り、メニューセットを終わらせ、モップの水を今まさに絞っているところだった。割合で言えば70パーセントは完成した計算となる。……俺達の手洗いの間に。
詩歌にだけ任せている訳にはいかない。俺は指示を仰いだ。
「何から手伝えば良い!?」
「外回りは全く手付かずです! 詠さんは掃き掃除、店長はアプローチ清掃と入り口扉を進めてください! あ、モップは後で私が纏めてかけるので、残しといてください!」
「オーケー! 行くぞ詠!」
「ふええ……」
手洗いターマーの電子音を確認し、恐る恐る手を拭いている詠に声をかけ、引き連れる。
入り口扉を開け、外に出たところで立ち止まり、彼女に話しかけた。
「護衛といったか、詠」
「え? 言ったけど……。……ええええ?」
驚愕。まさか、という表情。この女、やはり感は鋭い。ご想像のとおりである。
そうして俺は、不遜に言い放つ。かつて早広に言ったように。
「お調べの通り俺はここ、アザレアカフェの店長だ。要望の通り、お前の護衛をうけようじゃないか」
しかしながら、陰謀渦巻くこの店舗。自衛の手段は必要である。早広、榊、そして詩歌。こいつらの身辺の安全も確保しなければならない。
「ただし、俺は店舗にいる時間が長い。その間お前にはここで働いてもらう」
その点にして、詠はおそらく優秀だ。傍においておけば期待以上の成果を出すだろう。
その為には、こうして協力を仰ぐ以外の選択肢は視野になかった。
「は、は、話が飛躍し過ぎだよおお! なんで私がこんな下女みたいな仕事!! あ痛あああ!」
「全国のアルバイトの皆さんに謝れ。それに俺も譲歩してるんだ、住む場所だって提供してるわけだし……」
いや、ある意味僥倖か。今口にだす必要はないが。
「殴らないでよううう」
「わかったならはいと言え。それで契約成立だ。ちなみに断るなら、今度の”選別”は一切の協力をしない」
「えええ!? あなた自分の過去は? もうどうでも良くなった!?」
「そういうわけじゃない。ただ、店のみんなの安全がまず第一優先だ。これ以上誰かに危険が及ぶのは看過できない。……もういいだろ。受けるのか、受けないのか」
詠はうんうん考えこむような仕草で、肘を曲げ、拳を顎に添えた。
しかし思案は一瞬。もとより駆け引きを持ち込むつもりは無かったらしい。……まあ、分かっていての取引なのだが。
――おそらくその決断には、俺の過去、詠の過去が大きく関与している。
彼女にとって、”選別”は絶対参加の要件であることは容易に読み取れた。
「……はい、わかりましたよお」
実際イチかバチかの賭けだった。しかし今後生活を共にするにあたって、隙はできるだけ見せたくなかった。”めんどくさい奴”認定されたほうが、今後の交渉事も有利に運びやすい。
あらためて詠を見据える。
そうして俺は、そっと右手を差し出した。
「これは……?」
「ジャパニーズ握手だよ。シェイクハンドだ。分かるか?」
「いや、知ってるけど……。あ、はい、よろしく……」
怪訝な顔をして問う詠に対し、俺は毅然と返答した。
握手は慣れないのか、やや頬を赤らめながら、俺の手を握り返す。
白く、小さな可愛らしい手。しかしその手は冷たく、冷えきっていて。女の手とは思えぬほど、その平は固く、ざらついていた。
人差し指の付け根に特徴のある豆。銃、または小型の刃物を非情に長い期間使い込むと、こういう手になる。
「い、いつまで触ってるの」
「ああ、すまん」
「硬いでしょ、わたしの手」
その声は、どこか寂しそうで。人と距離を置こうとしているのが分かった。
その顔を見て、何故かほうっておけない、と思った。
「ああ。よく鍛えられた手だ。……今度はその手で、俺達を守ってくれ。俺も全力でお前を守る。期待してるぞ、詠」
改めて、強く、彼女の手を握った。
つう、と彼女の頬を雫がつたった。少し遅れ、詠はそれに気付き、繕うように目を擦る。
しかし止まらない。嗚咽が漏れ出る。止まらない。
溢れ出る涙は、時間とともにその量を増やしていった。
――この背に、いったいどれほどの闇をかかえていたというのか。
「あ、ご、ごめん。あれ……? おかしいな、とまらない、よ」
泣き笑いのような表情で、微笑む詠。
俺は、いたたまれない気持ちになって、問う。
「すまん、何か、悪いこと言ったか。覚えてなくて、何かしたなら謝る」
「ううん、大丈夫、ありがとう……。”選別”が終わったら、全部話すよ。私の事とあなたの過去を」
もう少し待っててね、と笑う詠。その眼は少し腫れていたが、いつもどうりの彼女だった。
「さ、さて! 急がないと大変なんじゃないの? 店長さん?」
「え、あ、ぎゃあああああああああ!」
「店長! 外回り終わりましたか!? もう中は大丈夫ですよー!」
涼やかな詩歌の声。俺の慟哭が朝ぼらけの空に響いた。
オープンは勿論遅れた。